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ドラジャパクイーンの本懐3:日常の言語生活に潜む「遊び」1

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                 ビクトリア、ビーコンヒル公園

週一のブログ更新を怠ってしまいました。自分の約束を破ってしまって、残念、無念!

 

でも、わたしは、なぜ自分の約束にこだわるのでしょう?

 

言語哲学の分野で、言語行為理論(Speech Act Theory)という言語理論があります。たとえば、わたしが、友達に「明日、10時に駅で待ち合わせしようね。」と言ったら、それは、たんなる事態の描写ではなく、この文を言うことで、「約束」をして、その約束を守ることが期待されます。有言実行ですね。

 

何か事情があって、約束が守れないこともあるでしょう。でも、度々約束破りをするとわたしは社会的に信用を失うことになるでしょうね。さらに、約束のことばを発することで、わたし自身がその約束に縛られることもあります。

 

今回、ブログ週一更新という約束を破ったわたしは自分の約束、つまり自分で発したことばに責任を感じ、それを破ったことで、良心の呵責を感じているのでしょうね。

 

以上の例のように、言語行為理論は、日常的な言語の使用が同時に「命令」「依頼」といった行いを遂行するということを明らかにしました。

まあ、うそを日常的についている場合、また自分が言ったことをすっかり忘れてしまう場合には、当てはまらない理論ですが。(笑)

 

本題に戻りましょう。

 

聞いたり、話したり、読んだり、書いたり、わたしたちは日常的にことばを使っていますが、一体なんのためにことばを使うのでしょうね。「コミュニケーション」のためにことばを使う、とよく言われます。

 

「コミュニケーション」という言葉を聞いて多くの方がまず思い浮かべるのはおそらく話し言葉としての意思の疎通だと思います。厳密に考えるとコミュニケーションはさまざまな媒体で行えます。言葉を介さない非言語コミュニケーション、絵画など視覚に訴えるコミュニケーション、手紙などの書き言葉でのコミュニケーション、またマンガのように、文字と絵の複合媒体によるコミュニケーションなど、いろいろ考えられます。さらに、言語コミュニケーションと言いながらも,ことばだけでは成り立っていないということをしばしば感じます。つまり,動作ですとか,身振りですとか,あるいは表情ですとか,ことば以外のいろいろな要素によって、コミュニケーションが成り立っています。ことばによるコミュニケーションを考えるには、ことばだけを見ていては不十分だということが考えられます。ことば以外のことが日常的にあって,それがコミュニケーションの大切な要素として力を発揮していると思います。ことばを考えるとき,あるいは言語教育を考えるときことばだけではなくて,それ以外の側面を考えに入れることが重要ではないかと思います。

 

さて「コミュニケーション」というとまず何か言いたいことがあって、それを相手に伝達するという図式を思い浮かべがちです。たしかにはっきりとした意図がまずあってそれを相手に伝える状況も多々あります。仕事場で企画案をプレゼンする場合など、明確な目的、伝えたい内容がまずあって、それらの情報を効果的に聞き手に伝えようと最大限の努力をするでしょう。この場合の目的は聞き手を説得することにあります。しかし、私たちの日常生活を振り返ると相手とコミュニケーションを取ることそのものが、目的になる場合の方が多いのではないでしょうか。

 

気の合う友人とのおしゃべり、近所の人にばったり会った時に交わす会話などはそのよい例です。最近、特に若い世代の間では、携帯電話、パソコンでのメール、チャットの書き言葉によるやりとりが話し言葉によるやりとりの代わりをしているようですが、メールの書き言葉は話し言葉を模しているようにと思えます。その意味では、これも話し言葉による自己目的的コミュニケーションの変種と考えられるでしょう。

 

自己目的的コミュニケーションの一つのかたちである雑談を例に、母語話者はどんなことをしているのか探ってみましょう。豊橋技術大学で教えていらっしゃる岡田美智男さんは「自分が本当に伝えたいことは会話の中で生まれてくる、あるいは結果として会話の目的のようなものが立ち現われてくる。会話そのものが目的だったりもする。」と述べています。コミュニケーションには「伝えたい、伝えようとして伝わること」と「結果として伝わってしまうこと」の二面性があるようです。従来のコミュニケーション観では前者の「伝えようとして伝わる」面が重要視されて、後者の「結果として伝わる」という面が軽視されていたようです。以下にもうひとつのコミュニケーションに関する考え方を岡田美智男さんの理論を中心にご紹介します。

 

従来、見逃されがちであったコミュニケーションの側面は、言い換えるとコミュニケーションを人と人とのつながり、つまり関係性に焦点をおいています。対話をしている人たちは独立した主体が交互に情報をやりとりしているのではなく、むしろお互いの間の境界線があいまいになって、共同のシステムを作っています。この場合のシステムは固定したものではなく、リズムがあり流動的です。ジャズなどのジャムセッションを想像していただくとわかりやすいと思います。それぞれの楽器が奏でる音楽同士が一緒になってハーモニー、リズムを作っていきます。普通、ジャムセッションは即興で行われますが、演奏家一人一人がいくら上手でもそこにシステムがうまれないとただの雑音の寄せ集めになってしまいます。演奏家の奏でる音楽の間の関係性がジャムセッションの命ということでしょう。ジャムセッションのようなことを可能にするのは一体なんなのでしょうか。仲間の演奏者にただ合わせてついていくのではなく、(それだとテンポが遅れてしまう)、自分の「身体」を他者の「身体」と融合させるといることを無意識にしているようです。この融合を岡田さんは「相互のなり込み」と呼んでいます。

 

さてことばに話を戻しましょう。対話をしている二人は、二つの主体がばらばらな状態で交互に言葉をテニスボールのようにやりとりしているのではなく、むしろ二つの身体がお互いの身体になり、入れ込みあって、一つの流れ(システムといってもよいですが)を作っています。このような状態を「間身体的な場」と現象学では呼んでいます。日常の雑談も「なり込みの場」を介して他者との関係性が築かれ、調整されています。たとえば、昨日みたテレビ番組、学校で起きた事件などを友人同士で再構成する「共同想起会話」では、同じような発話が同時に出現することがあります。 二つの身体が一つの発話を作るのを楽しんでいるようにみえます。他にも一つの文を二人で完成させる、相手のことばが終らないうちに自分の言葉をかぶせるなど、「相互のなり込み」は日常、私たちがよくしていることです。言葉を介さなくとも、一緒にごはんを食べたり、テレビを見たりすることで、相手の考えている、気持ちがなんとなくわかることがあります。一緒に何かを見るという共同で同じことがらに注意を向けるという過程でお互いの気持ちが通じ合ったような気になるということです。

 

以上述べてきたコミュニケーションの特徴をまとめると、1)必ずしも言いたいこと、情報が予めあって、それを他者に伝えるとは限らない、むしろ雑談のように特別伝えたい情報がないが、会話する場合が多い。2)AさんがBさんに向かって発話し、その後、BさんがAさんに返すというようなテニスボールのやりとりとは限らない。同じ場、時を共有する場合、AさんとBさんは協同でコミュニケーションを成立させることがある。AさんとBさんというはじめはバラバラな主体が同じ場にいて、なんらかの行動をともにしたり、ことばをかわしているうちに「相互のなりこみ」が生まれ、その中から他者との関係性が築かれ、調整されています。このような自然発生的なコミュニケーションの中から意識しなかった意図が明らかになることもあります。

 

なんだか、「遊び」っぽくないですか?