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ドラジャパクイーンの教訓6:コミュニケーション再考

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冬でも咲き続けるエリカとそれを愛でる愛犬ポント

このブログで、何度も出てくるキーワード、「コミュニケーション」について、しつこく繰り返しになりますが、考えさせてください。前のブログ記事と重複する箇所もありますが、ご容赦ください。

 

コミュニケーションって一体なんなの?文化によってコミュニケーションのモードが違うの?前回のブログでわたしは、使う言語によってコミュニケーションのモードが違うと言っていましたね。英語を使うときは、はっきりと意見を言って、フレンドリー、オープンなコミュニケーション、日本語のときは、少し控え目、みたいな?

 

さて「コミュニケーション」というとまず何か言いたいことがあって、それを相手に伝達するという図式を思い浮かべがちです。たしかにはっきりとした意図がまずあってそれを相手に伝える状況も多々あります。仕事場で企画案をプレゼンする場合など、明確な目的、伝えたい内容がまずあって、それらの情報を効果的に聞き手に伝えようと最大限の努力をするでしょう。この場合の目的は聞き手を説得することにあります。しかし、私たちの日常生活を振り返ると相手とコミュニケーションを取ることそのものが、目的になる場合の方が多いのではないでしょうか。

 

気の合う友人とのおしゃべり、近所の人にばったり会った時に交わす会話などはそのよい例です。最近、特に若い世代の間では、携帯電話、パソコンでのメール、チャットの書き言葉によるやりとりが話し言葉によるやりとりの代わりをしているようですが、メールの書き言葉は話し言葉を模しているようにと思えます。その意味では、これも話し言葉による自己目的的コミュニケーションの変種と考えられるでしょう。自己目的的コミュニケーションの一つのかたちである雑談を例に、母語話者はどんなことをしているのか探ってみましょう。前にも言及した豊橋技術大学で教えていらっしゃる岡田美智男さんは「自分が本当に伝えたいことは会話の中で生まれてくる、あるいは結果として会話の目的のようなものが立ち現われてくる。会話そのものが目的だったりもする。」と述べています。コミュニケーションには「伝えたい、伝えようとして伝わること」と「結果として伝わってしまうこと」の二面性があるようです。

 

話をしている人たちは、各人がばらばらな状態で交互に言葉をテニスボールのようにやりとりしているのではなく、むしろ各人の身体がお互いの身体になり、入れ込みあって、一つの流れ(システムといってもよいですが)を作っています。このような状態を「間身体的な場」と現象学では呼んでいます。日常の雑談も「なり込みの場」を介して他者との関係性が築かれ、調整されています。たとえば、昨日みたテレビ番組、学校で起きた事件などを友人同士で再構成する「共同想起会話」では、同じような発話が同時に出現することがあります。 二つの身体が一つの発話を作るのを楽しんでいるようにみえます。他にも一つの文を二人で完成させる、相手の言葉が終らないうちに自分の言葉をかぶせるなど、「相互のなり込み」は日常、私たちがよくしていることです。言葉を介さなくとも、一緒にごはんを食べたり、テレビを見たりすることで、相手の考えている、気持ちがなんとなくわかることがあります。一緒に何かを見るという共同で同じことがらに注意を向けるという過程でお互いの気持ちが通じ合ったような気になるということです。

 

以上のことは、すでに前の記事で述べました。それをもう一歩、踏み込んで、コミュニケーション活動をしている人たちがいる「場」言い換えると広い意味での「環境」に注目してみましょう。

 

人を含む有機体の行動・知覚を脳、神経経路を経由した「刺激―反応」で説明していた理論とは、異なり、アメリカの知覚心理学者、ジェームス・ギブソンさんは、アフォーダンス(Affordance)という概念に基づき、人間を含む動物というか有機体と環境の関係について説明しています。アフォーダンスというのは、なにかを可能にする環境の要素を意味しています。

例えば、歩くという行為。これまでは動物の身体の性質として歩くことを研究するのが普通でした。「歩行」という意味は動物の内部にあるとされていましたが、歩行のアフォーダンスというのは動物に歩くことを可能にする環境の性質を指しています。

それに名前を与えるというのが発想の転換です。山登りをすると、山肌にはでこぼこの岩場やツルツル滑るところなど、いろいろなところがあり、一歩一歩足の踏み場を探して移動していくわけですね。

そのとき常に自分の移動を可能にする山肌の性質を探しているわけです。もし、一万歩で頂上に立てたとすると、体重を支え、移動を支えて、一歩歩くということを可能にする山肌の意味を一万のステップそれぞれで使ったはずで、そのすべてが移動を支えたアフォーダンスということです。


周囲にある環境の一部が歩くことに利用できるという見え方は、自分の身長や体重や運動能力を通して見えているので、ただの客観的環境というわけではありません。動物の行動の性質と周囲の性質が共に埋め込まれたことです。

もう一つの例をあげましょう。「薔薇の花」。これ自体は環境に存在するモノです。

ただ、これも有機体である「蜂」にとっては「蜜の貯蔵庫」、同じ有機体である人間にとっては、鑑賞・観察の対象となり、はたまた薔薇の花を気になる人にプレゼントすることで自分の感情を表現することもできます。

「薔薇の花」というモノには無限の価値が含まれていますが、蜂、人間など有機体はその中からいくつかの意味・価値を選び取っています。

この有機体と、ある環境にあるモノの一部の特性との間の関係性のことを「アフォーダンス」と呼ぶようです。

そして、このアフォーダンスというのは、「薔薇の花」の特性でも、「蜂」や「人間」など有機体の特性でもなく、あくまでこの2つの関係性の中で生まれる特性になります。なので、何が「アフォーダンス」になるのかというのは、有機体が何をし、何を欲し、何を有用と思うかによって変わることになります。

ですから、同じ(客観的)環境下にあっても、アフォーダンスに意識的、無意識的かはわかりませんが、それに気づき、それを活用するかどうかは個人差があります。

 

このアフォーダンスという概念を聞きかじってから、10年ぐらい経ちます。それを知ってから、学生さんたちを観察していると、いわゆる勉強の仕方が上手な人たちは、アフォーダンスの存在に気づき、それを活用しているように思えます。

 

またわたしの人見知り克服の話になります。以前、教師という役割がわたしを人見知りから解放してくれた、と述べました。しかし、教師という役割に「入る」には、大学という建物、教室、机、椅子、黒板、プロジェクターなどといったお膳立て、つまり物理的環境が必要ですよね。

 

コミュニケーションに話を戻しますと、最近では様々な業種で、居心地のいい部屋、照明、音楽などの物理的環境を整えることが、相手との接し方を工夫することと同じぐらい大切だと考えられています。

 

わたしの勤務する大学でも、カウンセリングなどを行う部屋は相談相手がリラックスしやすいように工夫されているようです。硬い椅子のかわりにソファがおいてあったり、観葉植物があったり、と。

 

たしかに入った瞬間にリラックスできる場、その逆に緊張を強いられる場というのがあるような気がします。

 

意図的にアフォーダンスを作り出す(もちろんそれに気づいてもらわないと困ります!)こともできるのかな、と思い始めています。