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ドラジャパクイーンの教訓4:習うより慣れろ

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          ビクトリア Government Houseにて

ヴィゴツキーという有名な発達心理学者は、子どもは自分一人では到達できないが大人や仲間と一緒の協同作業を通してなら到達できるレベルの能力を潜在的に持っているといっています。それが「発達の最近接領域」の概念です。

言い換えると、今は一人でできないかもしれないが、将来はできるようになるレベルの能力を表しています。子どもの潜在的能力を語るにあたり、子どもの持つ模倣能力について注目する必要があります。子どもはほんの幼い乳児のころから、周りの人の真似をします。子どもは現在の子ども自身の限界を超えたさまざまな行為を模倣することができます。 

子どもが今日、大人などのメンターと一緒にできることは、明日には自分ひとりでできるようになるということです。ここでの「明日」というのはもちろん比喩的表現です。子ども一人一人によって、いつ「明日」が来るのかは違いがあるでしょう。大人や仲間同士での協同によって、自分ひとりでは到達できないレベルに「背伸び」ができるとも表現できます。

それでは、どのようにしたら「背伸び」が可能になるのでしょうか。ブルーナーという学者はヴィゴツキーが提唱した「発達の最近接領域」では明らかにされなかった「背伸び」の仕組みを「足場かけ」(scaffolding )という概念を使って明らかにしようとしました。足場は、そこにいるため、足を置ける場所のことを意味しますが、永久的な場所ではなく、仮りの場所という意味合いが強いです。

たとえば建築工事のときに足場は本来の目的である建造物を作るための作業を可能にするものです。しかし、建造物が完成したら不必要になります。教育における「足場」の例は数多く挙げられます。問題解決学習の場で、教師がいくつかのヒントを挙げるのもその一例でしょう。

これを大人の日本語学習者に応用してみるとどうなるでしょうか。

わたしが勤務する大学で、プロの俳優が演じる日常的な場面を描いた演劇作品の鑑賞と模倣を中心とした学習活動を行っています。前にお話した「東京ノート」です。第一段階として作品内容の理解、つまり荒筋と登場人物の気持ちを理解し、第二に登場人物の立場になって、つまり自分のなかにある想像力を駆使して共感をもち、登場人物になってみる。第三にプロの俳優によって演じられた演劇作品を模倣します。すなわち、発音、抑揚などを真似することから、間の取り方、あいずちの打ち方などコミュニケーションルールに至るまでを模倣します。第四に自分たちでこの芝居と似たような状況、登場人物を考えだして、短いスキットを作ります。 

上述のヴィゴツキー理論を応用すると、プロによるパフォーマンスをお手本にしてそれをクラスメートと一緒に教師の助けも借りながら模倣することによって、自分ひとりでは到達できないコミュニケーションのレベルに「背伸び」ができるようになる、と考えられないでしょうか。 

言い換えると、「足場かけ」としての演劇的活動ということです。演劇においてディレクターが、俳優がうまく役をこなせるように指導するように、日本語学習者が実際に日本語を使って、適切なコミュニケーションができるように指導することは、私たち教師の大事な仕事の一つです。

学習活動としてロールプレイのような場合は、学習者自身の経験や環境を考慮しなくてはならないと思うのです。「のびしろ」とは、演じる側の想像力の及ぶ範囲のちょっと先、経験してなくても想像すれば、あるいは身体を動かせば経験できそうな領域のことです。そこを刺激するためには面白そうな取っ掛かりを教師は提示しなくてはなりません。日本語を演劇の場といういわば実験場でいろいろ試し、調整して、リハーサルをすることによって本番に臨むという点では俳優も日本語学習者もまったく同じプロセスを経ているんではないでしょうか。

 

私たちは体験的に身体で覚えたことはなかなか忘れないということを知っています。

たとえば水泳や車の運転など、どんなに本で勉強しても、事前に説明を受けても実践してみるとなかなかうまくできません。

しかし、いったん身体で覚えてしまうとその知識は定着します。しばらくぶりに泳いでもなんとかできるのは、それが動作記憶になっているからです。

外国語の学習も同じメカニズムから成り立っています。文法、語彙などの知的記憶を動作記憶に変えるには身体を通して覚えるしかありません。

言語教育を考えるとき、特に話し言葉学習において、文法ルール、語彙などの狭い意味での言語的要素だけではなくて,ことば以外の側面を考えに入れることが重要ではないでしょうかね。

つまり身振り、目線などの非言語要素および音調などのパラ言語要素も含め、ホリスティックに行われるべきではないかということです。

またコミュニケーション行動がはらむ「間身体性」、「関係性」も重要です。人と人との間の関係性、身体性なしにはコミュニケーションは成立しないといっても過言ではないと思います。関係性、身体性を可能にする場の共有の大切さも忘れてはならないでしょう。「模倣」が演劇だけでなく、学習にはたしてきた役割も見逃せません。

「演じる」とか「演技」ということばは日常生活ではあまりポジティブに受け取られていないようです。芸術家の森村泰昌さんという方は演技することなしに人間はありえないと言っています。

子どものころ、私たちはごっこ遊びやゲームを通じて人間関係について、失敗がゆるされる(どころか楽しみながら)場で「テスト」ケースを体験していました。大きくなってからは学校などで本番さながらのリハーサルを体験します。

私たちは意識しなくても演技に関わっているように思えます。広い意味での演技の積み重ねによって、私たちは自分の性格、個性を作り出しています。

「演劇」や「ドラマ」という言葉を聞くと、「私には演じることなんてできない、まして演劇なんて教えられない、」と尻込みする方も多いかもしれません。

しかし、よく考えてみると、私たちは日常いろいろな役割を演じています。同じAという人が家庭では「妻」や「母」であったり、仕事場では「教師」、「同僚」であったりして、その役割に適した表現を難なく選んで、ある意味「演じて」います。

私たちが社会的な存在である以上、「演じる」ことは日常的な行動です。視点を変えて、私たちが日常行っている「演技」の延長と考えれば、日本語教育に演劇的な要素を取り入れるのは決してむずかしいことではありません。

わたしは教師という立場から、日本語を学ぶ学生さんに 演劇を活用し、「足場かけ」活動を行なってきたつもりです。

でも、面白いことに、教師という「役割」を長年「演じ」ていることが、人見知り克服のための「足場かけ」のような機能を果たしていたようです。

毎学期、全く面識のない学生さんたちと関係を作り続けていくということをしてきました。おそらく数千人という数の「知らない人」に会って、数週間で信頼関係(であってほしい!)を築くということを続けていると、人見知りなんかではいられなくなります。

気がついたら、教室外でも知らない人とあいさつはもちろんのこと、雑談がある程度できるようになっていました。

それに気付かされたのは、前にもお伝えしたかもしれませんが、人見知り時代のわたしをよく知る友人の一言。「知らない人と話が弾んでるねー。」

飛行機に乗っても、以前のわたしだったら、「話しかけるな!」オーラを全開にしていたのが、最近は話し込んでしまうことも。

わたしは柴犬を飼っているのですが、柴犬を連れている人を見かけると自然に身体が動いて柴犬仲間(?)さんに話しかけています。

性格が急に変わったというより、知らない学生さんと出会い、関係性を築くという行為を長年するうちに、知らない人と話す習慣は、ついにはわたしの生まれつきの性質のようになってしまっているのかもしれませんね。

「習い、性と成る」 でしょうかね?いい意味でも悪い意味でも。