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ドラジャパクイーンの教訓5:使う言語によって自分は変わる?

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ビクトリア、Government House

「習い性」の話のつづきです。

 

カナダに住んでいる年数が日本でのそれを越えてから、10年以上経ちます。

 

洋画好きだった母の影響を受け、子供のころから外国語、特に英語に興味を持っていました。英語を勉強したい!と思ったのは、ジュリー・アンドリュースさん主演のミュージカル、「サウンド オブ ミュージック」を見た直後。小学校の5、6年でしたかね。

 

最初は、友だちのおにいさんに英語歌詞をカタカナで書いてもらって、あまり歌は上手でなかったのですが、サウンドトラックのレコードを聞きながら、英語っぽく(と自分では思っていた)ジュリーさんといっしょに歌っておりました。

 

でも、カタカナ英語に飽き足らず、親に英語を習いたい、とお願いしました。英語の家庭教師さんがきてくれることになりました。早稲田大学の学生さんで、留学経験がある方でした。今、考えるととてもいい先生でしたね。その先生が大学を卒業するまで、3年ぐらい教えていただきました。聞くことと発音に重点をおいたレッスンでした。ますます英語が好きになり、英検を受けたりして頑張っていました。

 

高校は英語教育では評判のいいところで、ネーティブスピーカーの先生が英会話を教えてくださっていました。公立の中学出身のわたしには、外国生活の長い同級生や留学経験のある先生がいるこの学校に、はじめのころは馴染めずおどおどしていました。しかし担任の先生は外国での生活が長い女性で垢抜けているというか、かっこいい先生で、憧れていました。厳しい先生でしたが、先生の英語のクラスが好きで頑張ったせいか、努力が認めてもらえたのはとてもうれしいことでした。同級生でアメリカに1年留学した人もいたりして、わたしもいつかは英語圏で留学したいなあ、と淡い願望を抱くようになりました。

 

大学でも英米文学科に所属し、また課外活動としても英語でのクラスを受講し、さらに2ヶ月のホームステイをアメリカでして、ホストファミリーと英語でコミュニケーションができたつもりでした。

 

自信満々でトロント大学の博士課程に入りました。そこで、自信が打ち砕かれていく出来事が次々と起こりました。初めてのクラスでは、10パーセントぐらいしかわからず、もちろんディスカッションに参加など無理な話です。日常生活でも語学の問題というよりは、生活文化上の違い、たとえばサラダを注文したらドレッシングを選ばなければならないという食習慣を知らないために、ウェイトレスに何度も同じ質問(What/which dressing would you like?と多分言っていたのだと思います)

をさせて、しまいには怒らせてしまうこともありました。

 

英語に対する自信がガラガラと崩れていく音が聞こえるようでした。

 

周りに日本語を話す人がまったくいない状況が半年続きました。ある時、市の図書館で日本語の新聞を読もうとしたら、縦書きの日本語が一瞬ですが、意味をなさない記号の集まりに見えたのです。今の時代のように、メールだのインターネットなどない時代です。母国ははるか遠かったですね。

 

わたしの属した教育学部は現役の先生、特に小中高の先生が昇進をするために再研修をする場でもあったので、同級生はうんと年上のお姉さんもしくはお母さん年代の方が多かったです。その年代の女性、特に現役の先生は世話好き、悪くいうとおせっかいな傾向があります。幸いなことに、世話好きなおばちゃん同級生に可愛がってもらい、補習や課題の英語チェックなどをしてもらっていました。それだけではなくプライベートでもお家に呼ばれてご馳走になったり、映画や遊園地に彼女たちの子供といっしょに連れていってもらったりしていました。そういう場で(安心できる場)英語でのコミュニケーションにも少しずつ慣れていきました。ただ今思うと、英語を話しているわたしはハイテンションで、超フレンドリー、不自然なわたしでしたね。本当の自分というのが何かわかりませんが、人見知りのわたしとは違うキャラが英語のコミュニケーションでは生まれていました。

 

これは外国語学習者が経験することで、Second Language Identityと呼ばれる現象です。わたしの学生で、日本語のクラスと言語学のクラス(これは英語媒体)を取っている人がいました。日本語力はかなり高かったですが、日本語を使っているときはおとなしめで謙虚な印象を受けましたが、英語では自信に満ち溢れて、やや生意気?な印象を持ちました。

 

昔は英語があんなに好きで得意だと思っていたのに、今は、英語はとてもむずかしいと思っています。さらに、日本語の能力も失っている(元々あまり日本語力は高くなかったのかも)ようで、どちらも中途半端だなあとつくづく思います。ただ見方を変えると、両方合わせると100パーセント以上になるから、まあよし、としましょうか?

 

それと最近自覚したのが、日本語を話しているときの自分と英語を話しているときに自分との間に、キャラ的にそれほど差がないということです。また、日本語を話しているときでも、場面、相手、そしてコミュニケーションの目的によって、英語でのビジネス場面っぽく、フレンドリーだけどちょっと強気で話そうとか、コミュニケーションモードを選んで「演じ」ていることです。

 

外国語を習う醍醐味として、よく学生にいう言葉があります。

 

外国語はそれを話している文化そして人と通ずるドアみたいなもの。ドラえもんの「どこでもドア」みたいなものでしょうかね。