ドラジャパクイーンの教訓3:学ぶ立場から学んだこと
先回のブログで、平田オリザさんが勤務校に客員教授としていらしたことに触れました。
今日は、その時のことを振り返ってみたいと思います。
上級日本語会話•聴解のクラスを担当していただくことになりました。このクラスは、通常わたしが教えるものでした。前にも述べた通り、長年、非常に苦労したクラスです。しかし平田さんの「東京ノート」に出会ってから、話し言葉をどのように教えたらいいのかが少し見えてきた、というクラスです。
わたしともう一人、日本語担当の同僚が学習者として、平田先生のコースをとることになりました。
平田先生のクラスでどんなスキットを作るかを決めるとき、面白いと思ったことが一つありました。
各学生に、場、時、問題を小さい紙に書かせて、それをクラス全員が見える黒板などにはりました。その中から人気投票をして、3種類ぐらいの設定に絞っていきました。
その際に、平田さんがこんな状況をどんな風に上演するのか、など質問していきました。あまりにも荒唐無稽なものは、パフォーマンスをするのが絶対無理と言わないまでも、かなり大変そうだ、というのに、学生さんも納得したようでした。
いろいろなスキットがあってもバラエティがあって面白いかと思いますが、このように種類を絞って、各グループがスキットを作っても面白いものだと感じました。
自分たちがいいと思う設定に投票をさせる際に、学生がとても生き生きとしていたのを鮮明に覚えています。ふだんは、無表情な人が表情豊かになった瞬間でした。
ただ単に先生に言われた課題をするという受け身的態度ではなく、自分たちが選んだ結果に従い、能動的に学習活動をするという自発性が伺えました。
ウォーミングアップ的な活動をいくつかした後、いよいよグループになって、少し長めの作品を作る際にもびっくりしたことがあります。
スキット作りをするとき、学生にシナリオを先に書かせ、それを先生がチェック、お直し済みのシナリオを覚えて、発表という段取りをずっとしてきました。
平田先生方式は全く違っていました。1シーンの内容をまず考え(1シーンというのは、人が出たり、入ったりするとシーンが変わる、と考えます。ですから、同じ場所でもいくつかのシーンが生まれます)、登場人物同士がインプロ的に話してみる、それを他の人が記録し、それを元に「セリフ」にする、というプロセスでした。
もう、このやり方は大げさにいうと、コペルニクス的転回というものでした。
余談になりますが、わたしが関わっていた会で、日本語教師のためのシナリオ作りワー クショップなど、演劇界で活躍する方を講師にお招きし、「リアル」なことば でできたシナリオを作りそれを語学教育に活かす、という試みを企画してきました。
参加者から大変好評でした。しかし、「リアル」なことばで日本語教育の現場 で使えるようなシナリオを作ることが一筋縄では行かない、ということも痛感 しました。
そんな折、インプロ的な会話・対話を他の人が記録、観察するというワークショップ活動をしたことがあります。
そのワークショップでは、私たちがどんな風に「おしゃべり」している のかを見つめることから「リアル」な日本語に近づく、というのが狙いでした。
講師は平田さん主宰の劇団、青年団の俳優として話しことばを鋭く見つめていらしている山内健司さ んでした。
山内さんは演劇のことばについて次のように述べています。 「演劇の台詞の多くは「話し言葉」です。それは私たち自身の「本物の話し言葉」に大変似ています。私たちが充分に知っているかのように思いがちな この「本物の話し言葉」はどんな姿をしているのでしょうか?
そしてそれは演 劇の台詞とどう関係があるのでしょうか? このプログラムは、私が俳優として舞台上で感じていることから立ち上げた、 オリジナルのプログラムです。独自のやり方で、実際に個々人のしゃべる言葉 と向き合い、詳細に調べながら、その圧倒的な複雑さや、人によって全く異な る個性を味わい、楽しんでいきたいと思います。」
このワークショップに参加するまで、自分がどんな風に話し、コミュニケーションを行なっているのか、考えることなく、のほほんと日本語教師をやっていました。
このワークショップで、大きな発見が二つありました。
第一に、仕事でのコミュニケーションのやり方が仕事以外の場でも適用されることが多いということ。
わたしたちのグループのメンバーは、大学で講義形式のクラスを担当されている方、初級の日本語を教えている方、そしてわたし、の3名でした。
大勢の学生さん相手におそらく1コマ中、ずっと講義をしていらっしゃるであろう方は、ほかのメンバー二人にも、おそらく学生さん相手にするように、ほぼ90パーセント話していらっしゃいました。
わたしは、人見知り(覚えていらっしゃいますか?)で話すのが得意でないというか、だれか話してくれる人がいればこれ幸いと、聞き役に回るのが好きな方です。ですから、ただあいづちを打っていました。
ただ、もう一人の方が聞き役だけでは物足りないタイプの方で、講義調のコミュニケーションに対しイラついているのが明白でした。
わたしは二人の調整にあたふたしていたという思い出があります。
自分自身を振り返ると、日本語学習者には、できるだけやさしい日本語を使ってしまう、いわゆるTeachers’ Talkという話す癖があるということには気づいています。そして、学会などアカデミックな場でも漢語はあまり使っていないですね。
さて、第二の発見です。これは、自分が発した言葉でも一旦外にでてしまうと、それをセリフとして再現するのは、非常に難しいということ。このワークショップでは、さらにむずかしく人の話したことを再現するというタスクが課せられていました。これは、非常にむずかしかったですね。
そして、本題にもどりますと、平田先生のクラスでインプロ的に好き勝手に話していたのですが、(日本語母語話者ですから!)それを文字にして、セリフにしたとたん、自分が発したことばにもかかわらず、非常に不自然な言い方しかできず、しかも覚えられない!ということに気づかされました。
それに比べ、学生さんはいろいろなチャレンジを楽々とクリアしていっていました。
あるとき、平田先生にどうしてでしょう?と質問しました。先生のお答えは、「年齢的なものでしょう。」 もう「ガーンッ!」でした。
しかしながら、何十年ぶりに学生の立場にたって、クラスメートと共同作業をするのはたのしかったですし、知らず知らずに「先生モード」で硬くなっていた自分に気づくいいチャンスでしたね。