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ドラジャパクイーンの回顧 3:「遊び」のはなしの入り口

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              ビクトリア市街のフラワーバスケット

前回は、私が言語学という学問に出会ったお話をしました。その頃、1970年代の言語学界のリーダー、MIT(マサチューセッツ工科大学)の教授でいらっしゃったチョムスキーさんの生成文法理論が脚光を浴びていました。簡単に言ってしまうと、全ての人間の言語に「普遍的な特性がある」があるという仮説です。さらに、その普遍的特性は人間が持って生まれた特徴であるということ。人間の赤ちゃんは言語を習得する装置(Language Acquisition Device=LAD)を持って生まれてくる、そして赤ちゃんが成長する社会的・文化的環境によって習得する言語は異なる、という理論です。異なる言語というのは、表層の事象であって、深層では普遍的な特性を共有しているというものです。日本の大学で、生成文法の授業を初めて取ったとき、まるで数学みたい!と思いました。いろいろな文章をピシッと数式のように解いてゆくのは、面白いとは思いましたが、どこか心の底で、「なんかなあ、こんなにすっきり行くのかなあ?」と感じていました。

 

こんなことを言ったら、お叱りを受けるかもしれませんが、研究対象や研究のアプローチというのは、流行というのもあり、また個人的な嗜好というか興味・関心に支配されることが多いのではないかと思います。決して、ニュートラルなものではないということを言いたいのです。個人的に大事に思うがゆえに、真剣に研究対象に取り組むこと、取り組み続けることができるのではないでしょうか?

 

さて、日本の大学で、学部、大学院とゼミの指導教官だった先生は、この生成文法論をMITでチョムスキーさんから直々に学び、日本に紹介した人でした。この先生には、物の考え方の基礎を学びました。英語学のコースと関係がないような西洋哲学入門の本を原語で読まされました。その頃は、英語学コースなのに、なんで西洋哲学?と不思議に思っていましたが、プラトンアリストテレスから始まり、デカルト、カント、フッサールなど西洋哲学の代表的な考え方を英文で読んでいくのは、結構楽しい作業でした。今でもその頃に習ったことを思考中に使っている自分に気づくことがあります。

 

英語学や言語学とは、関係のないことをしていたゼミで、先生が「これからは遊びについて、勉強していきます!」と宣言されたときは、さすがに呆れました。正直、「先生についていけるだろうか?」と内心では思いました。先生がなぜ「遊び」に着目したのか、当初は皆目見当がつきませんでしたが、そうこうするうちに、言語における遊びの要素を研究テーマに卒論と修論を書くことになります。

 

今でこそ、学会で「遊び」と言っても、それほど変な目で見られることはありませんが、40年以上前の言語学の世界で、言語における「遊び」なんて言っても、「遊びの研究なんて学問的でない!」など、悪口を言われっぱなしでした。

 

先生がテキストとしてゼミ生に課した本が、ホイジンガーの「ホモ・ルーデンス」でした。元々オランダ語で書かれた本でしたが、英語版を読むこととなりました。

 

今まで、「ホモ・サピエンス」(賢い人)から始まり、人間を規定する表現は多々ありますが、ホイジンガーさんは、「ホモ・ルーデンス」(遊ぶ人)をキーワードに、人類文化の源は「遊び」であることを歴史的、文化人類学的に検証します。いろいろな場所、時代で行われてきた「遊び」の特徴をあげて「遊び」の本質を探ります。

「遊び」についての本だから、読みやすくて、楽しいと思いきや、難解な箇所に何回も(ダジャレ・言葉遊びですね!)ぶち当たり、苦労して読んでいきました。この方は世界中の遊び的な文化事象を例にあげるので、それが一体なんなのかを調べることも必要でした。またいろいろな言語における「遊び」概念の表現についても言及しています。

 

「遊び」について、考えていけばいくほど、思考の迷路に入っていくような気がしていましたね。

 

次回は「遊び」という概念が言語によって違うというところ、そしてホイジンガーさんの考える「遊び」の本質的特徴について、(やっと)ご紹介したいと思います。