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ドラジャパクイーンの回顧 2:「遊び」へのプレリュード

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             庭の片隅でひっそり咲くビオラ

 

「虚構」と「模倣」とくれば、「遊び」ですよね。

 

以前、カナダ生まれの日系の子供達に日本語を教えていたとお話しました。6歳の子供には、ほんと苦労させられました。その時の経験は後々日本語教師としての糧となるのですが、その頃は、3時間の授業を飽きさせないで終わらせるので、精一杯でした。教えはじめて、2ヶ月ぐらい経ったころでしょうか。3時間をどうやって消化するのか、ルーティンができてきました。絶対はずせないのが、絵本の読み聞かせでした。

 

絵本を読んでいる間、子供達の集中力たるや目を見張るものがありました。12人の6歳児の目、二十四の瞳が絵本のページに釘付けになっているのを見て、物語の持つ力を目の当たりにしました。物語すなわち虚構の世界に、子供と言わずわたしたちはなぜ惹かれるのでしょうね?

 

様々な学問的分野で、虚構、模倣といった広い意味での「遊び」に関して理論づけが試みられました。都内の某私立大学に在籍していたわたしも、ひょんなことから「遊び」の勉強に、まじめに取り組むことになりました。「遊び」について少し学問的にお話しする前に、「遊び」の世界に入るようになった遠いきっかけについて、わたしの青春の黒歴史を語らせてください(恥)。

 

親の女の子だから英文科へ、という希望を叶えるべく、英文科(正式には英米文学科)に入学しました。中学の頃から英語は好きで将来英語圏に留学したいという夢を持って、入学したのはいいのですが、英文学やアメリカ文学の授業に全く興味を持てませんでした。本を読むのは大好きでした。しかし、文学作品を読んでそれについて分析、批評をするというが、全く自分に向いていないという事実に直面したのです。本を読んで、「おもしろい!」か「つまらない!」のどちらかの感想しか持てないわたしにとって、大ピンチでした。

 

サボっても課題を出せば、単位が比較的簡単にとれた時代でした。そのころ、母が体調を崩したということもあって、家事を一手に引き受けるという大義名分のもと、出席も友人に代返をしてもらったりして、大学1年はほとんど大学に行かず、家に引きこもって好きな本やマンガを読みふけるという怠惰な時を過ごしました。それで、よく留年にならなかったものだと思います。

 

2年生になり、一般教養科目として「言語学講義」だったか「言語学入門」だったか、記憶は定かでありませんが、言語学に初めて出会います。まず「言語学」というのがどういう学問かわからずに受講しました。得意の行き当たりばったり方式です。

 

先生はその頃はありがたみがわからなかったのですが、構造主義・近代言語学の父、フェルディナンド・ド・ソシュールの『一般言語学講義』をいち早く日本に紹介、翻訳をなさった小林英夫先生だったのです。失礼ながら、おじいちゃんという印象の先生でしたが、ご自身の体験談を交えた講義は面白くて、こんな学問だったら、勉強したい!と強く思ったのを今でもよく覚えています。

 

その中で未だに印象に残っているのが、グリム童話で有名なグリム兄弟が実は、比較言語学という分野で学術的貢献をしたこと、そしていろいろな言葉、特に発音を採集するフィールドワーク中、土地土地の民話を集めたという件です。

 

小林英夫先生の授業を取ったおかげで、言語学の勉強を真剣にしようと思い立ちます。英米文学科では文学以外の道も開いていました。それが「英語学」コースでした。今はそのほかにもオプションがあるようですが、わたしがいたころは、「英文学」、「アメリカ文学」、「英語学」の3つに分かれていました。どうやって今の英語になったのかを勉強する「英語史」、「英語文法」など、英語に特化した授業だけでなく、一般言語学といって、個別の言語に限定しないで、言語一般の特性について学ぶ機会もありました。わたしはどちらかというと「一般言語学」つまり言語の特性を哲学的に検証していくというのが性に合っていたようでした。

 

いろいろな先生の授業を取っていく中で、言語の特性を従来の言語学では取り上げられなかった面から研究されていた先生に出会います。その先生との出会いで「遊び」研究にどっぷりとはまることに。

 

もったいぶってなかなか本題に入らなくて、すみません。

 

次回は、ちゃんと「遊び」を扱いますので、少々お待ちを。