ドラジャパクイーンのお部屋へようこそ!ドラマ・演劇・言語教育について思うこと

ドラマ・演劇を日本語教育に活用するアイデアをシェアする場です。

ドラジャパクイーンの回顧 4:ホイジンガー流「遊び」の特徴

f:id:DraJapaQueen:20190711081532j:plain

                   我が家の裏庭で咲く芍薬

「遊び」ということばを聞いて、どんなイメージが浮かびますか?

 

動物の仔がじゃれあっている行動? ままごと、鬼ごっこなど一連の子供の遊戯? 「仕事」の反対語? 不真面目? 余裕のある様?

 

新字源によると、漢字の〈遊〉は〈辵と,ゆれうごく意と音とを示す斿(ゆう)とから成り,ゆっくり道を行くという意味を表すそうです。それに対し、ゲルマン系の言語では、早い動きという概念が遊びを表すいくつかのことばのルーツになっているようです。ホイジンガーさんは、諸言語において「遊び」の内容を一言で表すことばがないと言っています。

 

発達心理学の分野では、遊びは子供の発達にとって、重要な活動で、認知・社会的発達、情緒発達の源であるといわれています。発達心理学などの分野では、「遊び」の機能、そして「遊び」の存在理由を論議している人たちが多いようです。たとえば、「遊び」は「余剰エネルギーの発散」のために生まれたなど。

 

ホイジンガーさんは、「遊びは文化に先立って存在し、人類が産み、発展させたあらゆる文化はすべて遊びの中から生まれた。」と言っています。つまり、文化のなかにある「遊び」的要素を探求するのではなく、人間の文化活動の源としての「遊び」を探求するということなのですね。

 

博学なホイジンガーさんは、古今東西の多様な文化事象を例に、その起源に遊びの要素を見つけ出していきます。ですが、その前段階として第一章ではまず「遊びの形式的特徴」を次のようにまとめています。

 

1)遊びは遊び手にとって、自由で自発的行為であること。だれかに無理強いされてする行為ではありません。さらに、遊ぶことで何かの効果、利益を得ようとする行為でもありません。簡単に言ってしまえば、遊びは遊び手がどんな遊びの形であれ、遊びたいからする行為ということになります。目的があってする他目的的行為とは真逆の自己目的的行為です。

 

2)遊びは「本来のことではない」言い換えると、私たちが日々普通に暮らしている日常生活(往々にして利害的な活動に従事する)から離れた「非日常」な活動領域に属する行為です。遊びは利害的な活動を孕む日常生活を一時停止させることができるとホイジンガーさんは述べています。

 

3)遊びは、場所や時間的に制限がある行為です。上述の「非日常性」にも関係していますが、日常生活、ハレとケという考えに基づくと、日常生活はケであり、私たちの生活では継続していく時間というイメージがあります。そして場所も仕事の場、家庭、普段の買い物をするスーパーなど、様々な場があり、限定というより広がっているイメージです。それに比べ、ハレの遊び的行為は、時間的、空間的に限定されているような感じがします。

 

例えば、趣味でやるサッカーは、サッカーの練習、試合は時間と場所が限定されています。そして、時間的制限があるということは、遊びは始まったら、必ず終わるということを意味しています。言い換えると、遊びは空間的・時間的限定性、そして完結性を持つということです。

 

遊びが進行する間に見られるのは、動きです。遊びの世界では、ただダラダラと物事が進むのではなく、高揚しては鎮まるという変化、思いがけない展開を含みながらもある一定の進行順序に基づき、進んでいきます。面白さを感じられる遊びでは、緊張と弛緩、変化と安定など、相反する要素がバランスよく現れます。相反する要素の絶妙なバランスが遊びの面白さを生むのかもしれません。

 

4)遊びは、一定の規則に則った秩序ある行為です。遊びだからと言って、自分勝手な行動を取るのではなく、遊び手同志の間で共同体としてのルールがあり、それに従います。先ほどのサッカーも一定のルールがあり、ゲーム上の規則以外にもマナーを守ることが期待されています。

 

5)ホイジンガーさんは、秘密性という形式的特徴を挙げます。学生時代にも、そして今でも私に取って、まだよくわからないところですね。自分たちは他のグループとは違うという点を強調するために、共同体メンバー間で取り交わされる仲間内でしか通じない言い回しとかメンバーになるための儀式などを意味しているのかなあ、と思っています。一人遊びもありますが、多くの場合、遊びは共同で行われます。共同体の結束が、遊びの魅力の一部と考えると、「内輪」感を生むしかけとして、共同体メンバー間の秘密というのもありかもしれませんね。

 

以上が遊びの5つの形式的特徴です。さらに機能的特徴として「闘争」と「表現」が挙げられています。ホイジンガーさんは、比較的高尚なレベルの遊びの機能は、多くの場合、「何ものかを求める」闘争であるか、「何かを表す」表現のどちらかであると断定します。時には、最もすぐれた表現者を選ぶ競争という形をとり、「闘争」と「表現」が一つにまとめられることもあります。

 

以上の遊びの概念をもとに、第二章以降で古今東西の文化事象を分析していきます。インドネシアや北米など原始的古代社会の話をしたかと思えば、ローマ時代から中世、ルネサンスを経て産業革命以降の近・現代社会の話にまで及びます。誰もが十分に知っているはずの「遊び」を定義することで時空を超えたあらゆる文化を結び付け、歴史学民族学言語学などを統合した独自の見地からつぎつぎに実証していきます。

 

祭礼行事はもちろんのこと、音楽、文学、哲学、演劇、舞踏、スポーツなどのわたしたちがふつう「文化」のカテゴリーにいれるもの以外のもの、例えば商業、工業、近代科学、裁判、議会政治、戦争なども「遊び」の範疇に入れてしまいます。彼は、「文化は遊びとして、もしくは遊びから始まったのではない。言うなれば、遊びの中で始まったのだ」(『ホモ・ルーデンス』、127ページ)と主張します。

 

さて、教育現場でホイジンガーさん流遊び論を応用するとしたら、どうなるでしょうか?

 

わたしは、講談社のモットーでもある「おもしろくてためになる」クラスを目指してきました。「ためになる」というのは、わかりやすいですね。教育的目標によってことなるかもしれませんが、何かの役に立つ、利益がある、ということですね。「おもしろい」とは一体なんなのだ?ホイジンガーさんは、なんと遊びの「おもしろさ」は分析も論理的思考も受け付けない、と言い切っているんです。困っちゃいますね。

 

ただ、おもしろいクラスにするヒントは、隠れていました。わたしが特に参考にしているのは、上述の相反する要素のバランスというところです。これは教育現場で、いいクラスにしようとするとき、意識するポイントです。遊びの進行について述べられているところをクラスに当てはめてみると、ビンゴ!クラス、学習活動をおもしろくするのに非常に役立つ秘訣がありました。

 

学習者を惹きつけるクラスが進行する間に見られるのは、動きです。おもしろいクラスでは、ただダラダラと物事が進むのではなく、高揚しては鎮まるという変化、思いがけない展開を含みながらもある一定の進行順序に基づき、進んでいきます。面白さを感じられるクラスでは、緊張と弛緩、変化と安定など、相反する要素がバランスよく現れます。相反する要素の絶妙なバランスが遊びの面白さを生むのかもしれません。

 

ちなみに、あるゲームデザイナーさんたちは、ホイジンガーさんとカイヨワさんの遊び論を参考にしているそうです。

 

「遊び」に、興味を持たれたら、ぜひ『ホモ・ルーデンス』を手にとっていただきたいと思います。高橋英夫さんの訳本と里見元一郎さんの訳本があります。高橋英夫さんの訳本が手元にあったので、そちらを参考にしました。

 

次回は、ホイジンガーさんの遊び理論を批判したロジェ・カイヨワさんの『遊びと人間』の中から彼の考える「遊び」をご紹介しようと思います。

 

 

ホモ・ルーデンス(中公文庫)

ホイジンガ (著), 高橋 英夫 (翻訳)

 ホモ・ルーデンス 文化のもつ遊びの要素についてのある定義づけの試み (講談社学術文庫) 文庫 

ヨハン・ホイジンガ  (著), 里見 元一郎 (翻訳)

遊びと人間 (講談社学術文庫) 文庫

ロジェ カイヨワ (著), 多田 道太郎 (翻訳), 塚崎 幹夫 (翻訳)