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ドラマ・演劇を日本語教育に活用するアイデアをシェアする場です。

ドラジャパクイーンの本職:もぐりの日本語教師誕生秘話2

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裏庭の桔梗

勤務先大学の新学年が始まりました。今年は勤め始めて、なんと33年目です!

 

今学期は、10数年ぶりに初級日本語を担当することになりました。この10年ほどは、日本語以外の科目を担当することが多く、日本語を教えると言っても、上級の読解とか会話とかを教えていたので、日本語を全く知らない人たちに教える感覚を忘れており、すこし不安でした。

 

勤め始めは、初級日本語と上級日本語という組み合わせで、日本語だけを教えていたので、非常にバランスが取れていました。ゼロから始めた学習者が大学で最終的に行き着くところを見られて、教えがいのある日々でした。

 

初級は授業中のペースが速く、エアロビクス的。わたしは、近所のジムでエアロビのクラスに通っていたのですが、上手な先生は生徒のことをよく見ていて、次にする動きの指示を適切なところで出すのです。また、だんだん動きの組み合わせを複雑にしていき、生徒に常に適切な量とペースのチャレンジをあたえていることに気づきました。あまり慣れていない先生は指示出しのタイミングが早すぎか遅すぎ、動きの組み合わせが難しすぎか、やさしすぎの両極端なことが多かったです。このエアロビ体験は、初級日本語を教える際にたいへん参考になったものです。

 

上級は?うーん。学習者のレベルがまちまちなことが多く、教えるのはむずかしいですね。特に会話のクラスは、10年以上、ああだこうだ、と試行錯誤の繰り返し。成功した!と自信が持てた学期は正直、なかったと思います。それで平田オリザさんの演劇に出会う訳なのですが、詳しいことは別の機会に。

 

1980年代、日本経済が世界を席巻していたころ、「日本の経済ミラクルの秘密はなんだなんだ?」と世界が大騒ぎをしていましたね。日本の教育制度が素晴らしいという説が流れると、日本の学校に外国からの視察団が殺到したこともありました。

 

日本の高度成長期と日本語ブームはシンクロしていたように見えます。

 

日本サイドでも、日本語を世界に広めよう!という動きが生まれ、日本語講座開講に関し日本からの助成を受け、世界各地の教育機関で日本語が教えられるようになりました。80年代の高度成長期にはカナダでも日本語ブームが起こり、中等教育日本語教育が開始されたのをはじめ、日本語教育機関数も学習者数も飛躍的に増加しました。

 

勤務先が日本からの助成を受け、わたしが雇われたという経緯があります。日本語学も日本語教授法もきちんと勉強せずにカナダの大学で就職できたのは、まさしく日本語ブームのおかげということになりますね。

 

日本の経済バブルが弾けてもしばらくは、日本語講座の開講ブームは続いていました。初級日本語講座は受講したい人が多すぎてたいへんでした。

 

80年代の日本語ブーム後、日本語学習希望者数は激減せず、横ばい状態でした。そして、日本語教師にとっての救世主、Jポップカルチャーの世界的人気により、日本語の人気がまた盛り返します。

 

最近では、アニメ、ゲーム、マンガから日本語に興味を持つという学習者より、日本語そのもの、そして日本の観光地、歴史、食べ物への興味から日本語講座を受講している人が増えているようです。

 

学習者の変遷を見ていくのもおもしろいですが、次の回では教え方(私個人の)についてお話しさせてください。

 

 

 

ドラジャパクイーンの本職:もぐりの日本語教師誕生秘話1

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オンタリオ州ミシソガで見かけたBrown-eyed Susan (オオハンゴンソウ属)

カナダ・ビクトリアの大学で日本語を教えて早32年。トロントでの大学院生時代も含めると、37年も日本語を教えていることになります。

 

トロント時代、日系子女の為に作られた日本語学校では6歳児を相手に苦戦し、高校生相手に、はたまた苦戦。

 

高校生が私の日本語教師歴で一番手強い相手でしたねー。わたしもまだ若く、またアジア系の女性は実際年齢より若く見られることもあって、初めのころは、完全になめられていました。女の子たちは、ばっちりお化粧をして、大人っぽかったです。ある時、クラスにお客様が見学に見えたのですが、わたしは生徒だと思われ、大人っぽい女子高生が先生に間違われたのをよく覚えています。

 

そんな苦戦を重ねていましたが、ある時、6歳児と同じく面白い授業をすると、高校生もキチンと向き合うという、当たり前のことに気づくのです。それは、彼らの興味のあることをプロジェクト形式で調べさせ、書かせ、発表させるという試みでした。いつもは寝ているか反抗しているような男子生徒が目を輝かせて、質問してきたのには驚きました。

 

子供っぽいとバカにするかと思いきや、アニメマンガ日本昔話にも喰いついていました。

 

子供と高校生を教えるだけでなく、大学では日本語コースの助手もしました。日本語学や日本語教授法も学んだことがないまま、初級とはいえ外国語としての日本語を教えるという無謀なことをしていました。助手と言っても、授業も担当させていただいたのは、貴重な経験でした。

 

大学院では、英語でのクラスで苦労し、自分に自信がなくなっていたころに、日本語を教えることになり、むずかしかったですが、母語をカナダ人学生に教えるということで、少しずつ自信を取り戻していったのをよく覚えています。わたしでも役に立てることがある、と自覚できたのは、大変うれしかったですね。ただ、日本語を教えるのにエネルギーを割きすぎて、博士論文の執筆が滞ってしまいましたが。

 

そんなある日、日本語の助手をしていた学科の掲示板に、現在、勤務している大学の公募ポスターが貼ってあるのに、気づきました。「日本語講師募集。2年契約だが、更新可。資格としては、博士号を持つ者、もしくは近々博士号取得見込みの者、日本語教師歴がある者」というような内容だったと思います。40年近く前のことです。もちろん、インターネットやE-メールなどがない時代。履歴書などタイプライターを使って用意した書類を郵送しました。

 

1週間後、家に電話がかかってきました。(携帯電話も普及していない時代です。)面接のために、ビクトリアに来るように、とのこと。1987年2月上旬、ビクトリアを訪れました。トロントは冬の真っただ中。根雪があちらこちらにあるとき、ビクトリアは早咲きの桜が咲いており、とてもきれいでした。なんとか面接と授業を終え、トロントに戻った翌日、仕事のオファーを電話でもらいました。

 

9月から新学年が始まります。ということで、滞っていた博士論文執筆に取り掛かり、約4ヶ月で終わらせました。あんなに勉強したことはないというほど、集中して論文を書き上げました。わたしはこどものころから、勉強時間が短いほうで、徹夜をしたことがなかったのですが、このときは12時間ぐらい、論文関係のことをしていたのではないでしょうか。ともだちに「ゾンビーみたい。」と言われ、心配されていましたね。

 

7月はじめに論文を大学に提出しました。

 

8月にはビクトリアに引越し。新天地での生活が始まりました。

 

次回は、いよいよ新米日本語教師(本職でありながらモグリ)としての生活、思いについてお話ししましょう。

 

 

ドラジャパクイーンの本懐4:日常の言語生活に潜む「遊び」2

 

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夏の収穫 かぼちゃ、いちごとほうれんそうのハイブリッド

前のブログで、明確な目的があり、伝えたい情報があるから、コミュニケーションをとるとは限らないというお話をしました。

 

「雑談」の醍醐味、そしてむずかしさは、話がどう転がるかわからないところ、つまり予測が簡単につかないところにあると思います。

 

失言をして、評判を落とすかもしれない、面子がつぶれるかもしれない、どんなことを話したらいいかわからない、うまく応えることができない、などなど、「雑談」にまつわる不安材料を数え上げたらきりがありません。

 

『凪のお暇』という今期話題になっているドラマを見ています。主人公の凪さんは、「空気」を読みすぎ、人とのコミュニケーションに苦労しています。このドラマは主人公の人生リセットという大きなテーマとともに、「コミュニケーション」についても考えさせてくれるいいドラマだなあ、と思っています。

 

凪さんがバイトをしているスナックで、お客さんとの「雑談」がうまくできないということで、「コミュニケーション」のハウツー本を何冊も買い込み、勉強しているというシーンがありました。でも、それをバイト先の主、元彼に一刀両断で批判されてしまいます。コミュニケーションというのは、小手先の技術で上手になるものではなく、相手に興味を持つこと、そして自分からアクションを起こすことが肝要だと、凪さんに伝えようとしたのだと思います。

このエピソードでは、凪さんは勇気を出して、「友達」の坂本さんに本音を伝え、ハッピーエンドで終わるのですが。

 

でも本音コミュニケーションは、いつもスムーズに行われるのでしょうか。

 

わたしたちは他の人と仕事の場、遊びの場であれ、なんらかのやりとりをする際、自分の経験、知識に基づいて世界を見ているし、コミュニケーションの取り方も自分流で行うことが多いでしょう。たまたま、出会った人と流儀が似ていて、コミュニケーションや仕事の段取りがスムーズにいくこともあります。

一般的に「日本人」は以心伝心で言葉に出さなくてもスムーズなコミュニケーションが可能であると言われます。

しかし、もしかして、ある人は「空気」を読んで、ほかの人(力関係で上の)の流儀に合わせているので、コミュニケーションがかろうじて成立しているのかもしれませんね。

 

それでは、どうしたらいいのでしょう?

 

凪さんのように、まず勇気を出して相手の懐に飛び込んでみることも必要でしょうね。

 

私が尊敬するロボット学の学者さん、岡田美智男さんが勇気を持って飛び込む行為、Entrustingとそれを受け止める行為、Groundingについて明快に解説しているので、引用させていただきます。

                *****

最初に繰り出す投機的な行為(エントラスティング entrusting)さえあれば、それを受け止める行為(グラウンディング grounding)がおのずと出てくる。そういう感覚が持てるかどうかが大事なんです。そもそも僕らは、言い直すことを前提に発話を作り上げているんですよ。それが当たり前のはずなのに、最初からきれいな構造のものをつくり出すようなトレーニングを強制されている。ちょっと間違えると叱られるから、頭の中で一生懸命考えて、プロットをつくってからしゃべり出すようなトレーニングです。でも、そうなったら誰もしゃべれないですよね。

                 *****

以前、私は人見知りで「雑談」が苦手と言っていました。おしゃべり上手なともだちにくっついて、よく知らない人との出会いでは、ただ相槌を打つ、いじられ役になる、など受け身的なコミュニケーターでした。話しかける勇気がなかったというのもあるでしょう。また相手に興味がなかったのかもしれません。今、振り返ると、よく知らない人と話すという「賭け」の遊びの面白さを知らなかったのだなあ、と思います。また話がどう転がるかわからない面白さ、楽しさが想像できなかった、というのもありますね。

 

高校時代からのともだちに、最近言われたのが、「よくしゃべるねえ!」です。何かきっかけがあると、知らない人に話しかけている自分に我ながらびっくりすることも。

 

参考文献

『弱いロボット』医学書院; 1版 (2012/8/24)

 



 

ドラジャパクイーンの本懐3:日常の言語生活に潜む「遊び」1

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                 ビクトリア、ビーコンヒル公園

週一のブログ更新を怠ってしまいました。自分の約束を破ってしまって、残念、無念!

 

でも、わたしは、なぜ自分の約束にこだわるのでしょう?

 

言語哲学の分野で、言語行為理論(Speech Act Theory)という言語理論があります。たとえば、わたしが、友達に「明日、10時に駅で待ち合わせしようね。」と言ったら、それは、たんなる事態の描写ではなく、この文を言うことで、「約束」をして、その約束を守ることが期待されます。有言実行ですね。

 

何か事情があって、約束が守れないこともあるでしょう。でも、度々約束破りをするとわたしは社会的に信用を失うことになるでしょうね。さらに、約束のことばを発することで、わたし自身がその約束に縛られることもあります。

 

今回、ブログ週一更新という約束を破ったわたしは自分の約束、つまり自分で発したことばに責任を感じ、それを破ったことで、良心の呵責を感じているのでしょうね。

 

以上の例のように、言語行為理論は、日常的な言語の使用が同時に「命令」「依頼」といった行いを遂行するということを明らかにしました。

まあ、うそを日常的についている場合、また自分が言ったことをすっかり忘れてしまう場合には、当てはまらない理論ですが。(笑)

 

本題に戻りましょう。

 

聞いたり、話したり、読んだり、書いたり、わたしたちは日常的にことばを使っていますが、一体なんのためにことばを使うのでしょうね。「コミュニケーション」のためにことばを使う、とよく言われます。

 

「コミュニケーション」という言葉を聞いて多くの方がまず思い浮かべるのはおそらく話し言葉としての意思の疎通だと思います。厳密に考えるとコミュニケーションはさまざまな媒体で行えます。言葉を介さない非言語コミュニケーション、絵画など視覚に訴えるコミュニケーション、手紙などの書き言葉でのコミュニケーション、またマンガのように、文字と絵の複合媒体によるコミュニケーションなど、いろいろ考えられます。さらに、言語コミュニケーションと言いながらも,ことばだけでは成り立っていないということをしばしば感じます。つまり,動作ですとか,身振りですとか,あるいは表情ですとか,ことば以外のいろいろな要素によって、コミュニケーションが成り立っています。ことばによるコミュニケーションを考えるには、ことばだけを見ていては不十分だということが考えられます。ことば以外のことが日常的にあって,それがコミュニケーションの大切な要素として力を発揮していると思います。ことばを考えるとき,あるいは言語教育を考えるときことばだけではなくて,それ以外の側面を考えに入れることが重要ではないかと思います。

 

さて「コミュニケーション」というとまず何か言いたいことがあって、それを相手に伝達するという図式を思い浮かべがちです。たしかにはっきりとした意図がまずあってそれを相手に伝える状況も多々あります。仕事場で企画案をプレゼンする場合など、明確な目的、伝えたい内容がまずあって、それらの情報を効果的に聞き手に伝えようと最大限の努力をするでしょう。この場合の目的は聞き手を説得することにあります。しかし、私たちの日常生活を振り返ると相手とコミュニケーションを取ることそのものが、目的になる場合の方が多いのではないでしょうか。

 

気の合う友人とのおしゃべり、近所の人にばったり会った時に交わす会話などはそのよい例です。最近、特に若い世代の間では、携帯電話、パソコンでのメール、チャットの書き言葉によるやりとりが話し言葉によるやりとりの代わりをしているようですが、メールの書き言葉は話し言葉を模しているようにと思えます。その意味では、これも話し言葉による自己目的的コミュニケーションの変種と考えられるでしょう。

 

自己目的的コミュニケーションの一つのかたちである雑談を例に、母語話者はどんなことをしているのか探ってみましょう。豊橋技術大学で教えていらっしゃる岡田美智男さんは「自分が本当に伝えたいことは会話の中で生まれてくる、あるいは結果として会話の目的のようなものが立ち現われてくる。会話そのものが目的だったりもする。」と述べています。コミュニケーションには「伝えたい、伝えようとして伝わること」と「結果として伝わってしまうこと」の二面性があるようです。従来のコミュニケーション観では前者の「伝えようとして伝わる」面が重要視されて、後者の「結果として伝わる」という面が軽視されていたようです。以下にもうひとつのコミュニケーションに関する考え方を岡田美智男さんの理論を中心にご紹介します。

 

従来、見逃されがちであったコミュニケーションの側面は、言い換えるとコミュニケーションを人と人とのつながり、つまり関係性に焦点をおいています。対話をしている人たちは独立した主体が交互に情報をやりとりしているのではなく、むしろお互いの間の境界線があいまいになって、共同のシステムを作っています。この場合のシステムは固定したものではなく、リズムがあり流動的です。ジャズなどのジャムセッションを想像していただくとわかりやすいと思います。それぞれの楽器が奏でる音楽同士が一緒になってハーモニー、リズムを作っていきます。普通、ジャムセッションは即興で行われますが、演奏家一人一人がいくら上手でもそこにシステムがうまれないとただの雑音の寄せ集めになってしまいます。演奏家の奏でる音楽の間の関係性がジャムセッションの命ということでしょう。ジャムセッションのようなことを可能にするのは一体なんなのでしょうか。仲間の演奏者にただ合わせてついていくのではなく、(それだとテンポが遅れてしまう)、自分の「身体」を他者の「身体」と融合させるといることを無意識にしているようです。この融合を岡田さんは「相互のなり込み」と呼んでいます。

 

さてことばに話を戻しましょう。対話をしている二人は、二つの主体がばらばらな状態で交互に言葉をテニスボールのようにやりとりしているのではなく、むしろ二つの身体がお互いの身体になり、入れ込みあって、一つの流れ(システムといってもよいですが)を作っています。このような状態を「間身体的な場」と現象学では呼んでいます。日常の雑談も「なり込みの場」を介して他者との関係性が築かれ、調整されています。たとえば、昨日みたテレビ番組、学校で起きた事件などを友人同士で再構成する「共同想起会話」では、同じような発話が同時に出現することがあります。 二つの身体が一つの発話を作るのを楽しんでいるようにみえます。他にも一つの文を二人で完成させる、相手のことばが終らないうちに自分の言葉をかぶせるなど、「相互のなり込み」は日常、私たちがよくしていることです。言葉を介さなくとも、一緒にごはんを食べたり、テレビを見たりすることで、相手の考えている、気持ちがなんとなくわかることがあります。一緒に何かを見るという共同で同じことがらに注意を向けるという過程でお互いの気持ちが通じ合ったような気になるということです。

 

以上述べてきたコミュニケーションの特徴をまとめると、1)必ずしも言いたいこと、情報が予めあって、それを他者に伝えるとは限らない、むしろ雑談のように特別伝えたい情報がないが、会話する場合が多い。2)AさんがBさんに向かって発話し、その後、BさんがAさんに返すというようなテニスボールのやりとりとは限らない。同じ場、時を共有する場合、AさんとBさんは協同でコミュニケーションを成立させることがある。AさんとBさんというはじめはバラバラな主体が同じ場にいて、なんらかの行動をともにしたり、ことばをかわしているうちに「相互のなりこみ」が生まれ、その中から他者との関係性が築かれ、調整されています。このような自然発生的なコミュニケーションの中から意識しなかった意図が明らかになることもあります。

 

なんだか、「遊び」っぽくないですか?

 

 

ドラジャパクイーンの本懐2:言語を使った「遊び」活動

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                  裏庭のコスモス

言語活動の遊び的要素とか遊び的側面と、聞いてどんなことを連想しますか?

 

ダジャレやなぞなぞなどの言葉遊びでしょうか? 

 

落語、漫才、川柳など言葉を使って作者・演者自身が楽しみ、楽しませる活動、滑稽・諧謔を狙う俳諧はグループで言葉を使って楽しむ活動。 

 

言葉を使って楽しむ活動はいろいろありますね。

 

以上挙げた例は、言語を使った「遊び」活動と言えるでしょう。

 

以上の言語「遊び」には、以前お話しした(ホイジンガー・カイヨワさんによる)「遊び」の本質的特徴が全てでないにしても多く見られます。カイヨワさんの遊びの特徴をおさらいしてみましょうか。

 

①自由な活動。すなわち、遊戯者が強制されないこと。もし強制されれば、遊びはたちまち魅力的な愉快な楽しみという性質を失ってしまう。 
②隔離された活動。すなわち、あらかじめ決められた明確な空間と時間の範囲内に制限されていること。 
③未確定の活動。すなわち、ゲーム展開が決定されていたり、先に結果が分かっていたりしてはならない。創意の必要があるのだから、ある種の自由がかならず遊戯者の側に残されていなくてはならない。 
④非生産的活動。すなわち、財産も富も、いかなる種類の新要素も作り出さないこと。遊戯者間での所有権の移動をのぞいて、勝負開始時と同じ状態に帰着する。 
⑤規則のある活動。すなわち、約束ごとに従う活動。この約束ごとは通常法規を停止し、一時的に新しい法を確立する。そしてこの法だけが通用する。 
⑥虚構の活動。すなわち、日常生活と対比した場合、二次的な現実、または明白に非現実であるという特殊な意識を伴っていること。 

俳諧を例に検証してみましょう。 

俳諧は一人ではなく、数人で楽しむことばの遊びです。自由意志で参加します。あらかじめ決まった時、場所で行われる活動です。ことばを集団で紡いでいく活動ですから、どんな風に作品が出来上がっていくのかわかりません。プロの俳諧師もおり、最終的にできた作品が出版され印税が支払われるということもあるとは思いますが、おそらく何かの利益を期待して俳諧の活動をする人は少ないのではないかと思います。俳諧俳諧式目という規則・作法に則って行われます。俳諧の活動は、日常生活とは異なる趣味的、二次的な生活空間・時間で行われているという意識を持って、営まれています。さらに、隔離された場、式目という規則がメンバー間の連帯感を高め、ホイジンガーさんが挙げた秘密性に結びついているような気がします。

 

言葉を使って楽しむ形式としての遊びの例として、俳諧を遊びの特徴に照らし合わせてみました。

ただ、漫才や落語などお笑いのプロがお金を稼いだら、生産的になってしまいそうですね。

 

言葉を使って楽しむ形式としての遊びとは別に、私たちの日常的な言語生活にも遊びの要素は潜んでいると思うのです。 

次回は、日常の言語生活(ソシュール流Langage)に潜む遊びのかけらをみなさんとみつけたいと思います。

 

ドラジャパクイーンの本懐1:言語の中の「遊び」プレリュード

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  Oak Bayのベゴニアー個人のお家ですが、見事なお庭をおしげもなく披露してくださっています。

週一回更新。自分との約束がギリギリで守れました。(😌)

 

これから数回にわたって、わたし個人の「言語」観のようなものを展開していこうと思います。過去学んだこと、経験したこと、ぼんやりと考えていたことが、頭のあっちこっちに飛び散らかって存在している、というのはおぼろげに意識しています。

 

かっこいい表現を使うと、「メタ認知」ですね。自分が考えていることを、高次元(メタ)の自分が見ている。自分のことを見ている自分というと、ちょっと幽体離脱の怪談みたいですね。でも、日常生活でも多くの方がやっていることです。特に、「空気」を読みすぎる傾向のある方は、メタ認知活動を活発にしすぎて不要なストレスを背負い込むこともあるのでは?

 

また脱線してしまいました。

 

さて、言語の話に戻ります。以前、言語学との出会いでお話したフェルディナンド・ド・ソシュール先生に再登場していただきましょう。

 

またまた脱線です。『一般言語学講義』は、ソシュール先生ご自身で書いた本ではなく、ソシュール先生のお弟子さんによって、没後出版された本なのです。ご自身で執筆し、出版された本は一冊もないんです。

 

1906年から1911年までジュネーブ大学でおこなわれた講義内容をまとめ、Le Cours de linguistique generaleというタイトルで1916年に出版されました。

 

出版に至るまで大変な苦労があったようです。先生は講義のためのノートというものをきちんととっておくタイプの方ではなかったらしく、講義での解説のための概要を急いで書 いた下書きを、次々に破棄していたそうです。(わたしは、すぐ紛失しますけど)

 

本の執筆にあたり、三回行われた講義に出席した学生たちが書き取った ノートに頼らざるをえなかった、と原稿執筆および出版事業に奔走したシャルル・バイイさんとアルベール・セシュエさんが回想しています。

 

わたしにとって、『一般言語学講義』の中で、一番意義深いのは、「言語」というとても複雑で説明しにくい事象を目の前にして、「どんな方法で」取り組めば良いのかについて、たくさんのヒントをもらったことですね。

 

その中で、今でも影響を受けているのが、広義の「言語」(フランス語のLangage/ランガージュ)を二つの側面に分けて扱うという方法論です。もともとフランス語で書かれた本ですから、フランス語を使ってみますね。

 

広義の「言語」または「言語活動」ーLangage

大辞林によると、Langageは、人間の話す・聞くという行為のありのままの総体を指しています。それは、複雑で多様な側面をもつ混質体であるため、そのままでは言語学の対象にするには扱いにくいので、ラングとパロールという相反的な二面に分けて研究すべきだとソシュール先生は説いています。

 

日本大百科全書では、言語をはじめとする記号をつくり出し使用することを可能にするさまざまな能力およびそれによって実現される活動と定義されています。この能力、活動には、発声、調音など言語の運用に直接関係するもののほか、抽象やカテゴリー化といった論理的なものも含まれます。

 

Langageに対し、個々の社会(例えば国、地方、グループ)のなかで、記号のつくり方や結び付け方、あるいは個々の記号の意味領域などをめぐる規則(いわゆる文法や語彙)が制度化されたものをLangue ラング(言語)と呼んでいます。さらにこのラングという枠組みのなかでランガージュを機能させることにより実現する、具体的に発せられた個々の言葉がParole パロール(言)と呼ばれています。

 

『一般言語学講義』は、ラングの領域に関する記述・分析が中心で、個人的、偶然的なパロールとは区別された社会的、本質的なラングが、言語学本来の対象であるというような印象を残してしまったようです。

ソシュール先生がどう思っていらっしゃったかははっきりわかりませんが、残されたノートなどから、ご自身は、パロール言語学も構想していたのではないかという意見もあります。

 

余談ですが、ソシュール先生はアナグラム(anagram)という、言葉遊びの一つで、単語または文の中の文字をいくつか入れ替えることによって、全く別の意味にさせる遊びに関する研究をなさっていたというのがわかっています。これを見ても、言語において規則や制度的な面以外にも興味を持っていたということが伺えますね。

 

パロール的な言語学を目指した方で、エミル・バンベニストさんというフランスの学者さんがいます。「ラング」中心とする言語学が、言語本来の動的で開かれた性質をないがしろにしていると批判し、文法以外の要素に焦点を当て、個別的で、一回一回違う(一期一会的)ディスクール(Discours)を分析対象とする言語学を提唱しました。このディスクールという概念は、のちに社会学詩学、談話分析などの分野にも大きな影響を与えました。

 

英語では"discourse”、日本語では意訳して言説(げんせつ)や談話と訳されることが多いです。ディスクールは、単なる言語表現ではなく、現実を反映するとともに現実を創造する言語表現であるとみなされています。

 

さらに、このバンベニストさん、詩の言語学的分析もされています。

 

少しずつですが、言語学における「遊び」的要素に近づいてきていますよ。

 

もう少しご辛抱を!

 

 

参考文献

一般言語学講義 (改訂版)

フェルディナン・ド・ソシュール (著), 小林 英夫 (翻訳)

岩波書店(1972)

 

新訳 ソシュール 一般言語学講義 

フェルディナン・ド・ソシュール (著), 町田 健 (翻訳)

研究社(2016)

 

一般言語学の諸問題 

エミール・バンヴェニスト (著), 岸本 通夫 (監修, 翻訳), 河村 正夫 (翻訳), 木下 光一 (翻訳)

みすず書房 (1983)

 

 

 

 

 

 

 

ドラジャパクイーンの回顧 5:カイヨワ流「遊び」の本質と種類

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              Genoa Bayのお花たち(パンジーと紫の花)

少なくとも週一ブログ更新という自分への約束を破ってしまいましたが、まあ無理せず「悠々・遊遊?」と、「遊び」理論のお話を続けましょう。

 

作家・批評家であるロジェ・カイヨワLes Jeux et les Hommes(『遊びと人間』)を、1958年にフランスで出版しました。彼自身、この本は、ホイジンガーの『ホモ・ルーデンス』のあとを受け継ぐものであると日本語版への序文の中で記しています。

 

カイヨワさんは、「遊び」の本質的特徴を以下のように説明しています。 (『遊びの人間』40ページからの引用)

①自由な活動。すなわち、遊戯者が強制されないこと。もし強制されれば、遊びはたちまち魅力的な愉快な楽しみという性質を失ってしまう。 


②隔離された活動。すなわち、あらかじめ決められた明確な空間と時間の範囲内に制限されていること。 


③未確定の活動。すなわち、ゲーム展開が決定されていたり、先に結果が分かっていたりしてはならない。創意の必要があるのだから、ある種の自由がかならず遊戯者の側に残されていなくてはならない。 


④非生産的活動。すなわち、財産も富も、いかなる種類の新要素も作り出さないこと。遊戯者間での所有権の移動をのぞいて、勝負開始時と同じ状態に帰着する。 


⑤規則のある活動。すなわち、約束ごとに従う活動。この約束ごとは通常法規を停止し、一時的に新しい法を確立する。そしてこの法だけが通用する。 


⑥虚構の活動。すなわち、日常生活と対比した場合、二次的な現実、または明白に非現実であるという特殊な意識を伴っていること。 

 

あらあら、デジャビュホイジンガーさんの言っていたこととあんまり変わらないですよね。

 

でも、三番目の未確定の活動というところが違いますね。

 

未確定ということですぐ思い浮かぶのが、偶然の遊び。ルーレットやトランプなど偶然に基づく遊びは金銭的利益をもたらすことがあります。ホイジンガーさん流遊びの本質的特徴の「自由な活動で、遊ぶことで何かの効果、利益を得ようとする行為ではない」と相入れないですよね

 

カイヨワさんは、ホイジンガーさんの定義に、未確定、不確定な特徴が挙げられていないのは、賭けがもたらす利益が問題視されていたから、説明しています。

 

カイヨワさんは、未確定・不確定性というのは、遊びの本質として大変重要であると主張します。結果がはじめから分かっていたら、人は遊びつづけるでしょうか?

たしかに、結果がわかっていたら、遊びの面白さは激減しますねえ。

 

カイヨワさんは、一見、利益を生むように見えるギャンブルでも、勝つ側と負ける側間の富の移動であって、富の生産ではない、と言い切っています。

 

一見遊びのようでも、この定義から外れるものは「堕落した遊び」だそうです。 例えば、ギャンブルで得た利益を生活の糧にしたら堕落した遊びということになります。

 

カイヨワさんは、人類の遊びを「意志⇔脱意志」「ルール⇔脱ルール」という2つの軸でとらえました。この2つの軸を交差させ生まれたカテゴリーが、競争、偶然、模擬、眩暈の四つになります。この遊びの分類がカイヨワ流遊び論の真骨頂でしょうか。

 

競争―意志+ルールは、参加者がルールの下で明確な意志を持って参加する類型を言います。例えばチェスなどがそうですね。これを「アゴン」(競争)といいます。


偶然―これに対し、ルールはあるものの、参加者の意志で進行するわけではない遊びもあります。例えば、ギャンブル。「勝ちたい」という意志は皆共通ですが、結果はそうした意志とは関係ありません。一方で、ルールは妥協の余地なく厳密に適用されます。これを「アレア」(偶然)と呼びます。


模擬― 一方、ルールの側が否定されるタイプの遊びもあります。例えば子供のごっこ遊びは、積極的な意志のもとで遊ばれるものの、勝敗は付きません。これを「ミミクリー」(模擬)と言います。演劇もここに含まれるでしょう。各人が何か他のものを演じ、他のものになったと信じる遊びですね。 


眩暈―そして、意志とルールのどちらも否定される遊び。カイヨワさんは「イリンクス」(めまい)という呼び名を与えました。回転や落下などの急激な運動によって、自分のうちに好んで混乱状態を作り出して、快感を追い求める遊びです。 小さい子供が訳もなくぐるぐるまわったりしているのも、この遊びにあたるのでしょうね。

わたしは個人的に苦手ですが、ジェットコースターとか、遊園地でわざと気持ち悪くなるような乗り物に乗って、楽しんでいる人は多いですよね。

 

カイヨワさんは、様々な遊びにおいて、この四つのカテゴリーのうちいずれかに属するか、またはいずれかかが優位を占めていると言っています。

 

たとえばポケモンカード。私の息子は幼い頃、夢中になっていましたが、これはアゴンのゲームでありながら、コイントスによるアレアの要素も強いゲームのようでした。 
さらに、ポケモンの世界観になぞらえてデザインされたカードゲームなので、ポケモンに出てくるキャラになりきってプレイできるところはミミクリ的なおもしろさもあったのかもしれないですね。 息子はどうもポケモントレーナー「サトシ」に一番感情移入していたような気がします。

 

規則は遊びを豊かで重要な文化的手段に変える、遊びの本質ではありますが、遊びの根源にあるのは、気晴らし、くつろぎ、即興などのことばで表される「自由」だと、カイヨワさんは言っています。この原初的なものがなければ、まず遊びは生まれないし、規則的な要素と組み合わさって豊かなものになる可能性もありません。

 

この原初的な力をパイディア(Paidia)、そしてその反対に位置するルドゥス(Ludus) 、つまり無償の困難(努力、忍耐、技、器用、窮屈な規約に従わせる力、 用意された規約や課題に挑もうという気持ち) を求める嗜好が組み合わさると遊びは、とてつもなく楽しく、遊び甲斐のある活動になるというわけです。


パイディアとルドゥスの割合を、絶妙なさじ加減にするというのが、ゲームクリエーターや教育、保育に関わる人たちの腕にかかってくるのでしょうね。面白さのさじ加減ですね。あまり無秩序でもだめだし、あまり堅苦しく規則で縛り付けるのもおもしろくないですしね。

 

遊びを理論的に研究した先人は他にも多々いらっしゃるのは、承知の上、これで一旦「遊び」の理論についてのお話は終わりにさせていただきたいと思います。次は言葉の中の「遊び」について、お話したいと思います。