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ドラジャパクイーンの回顧 5:カイヨワ流「遊び」の本質と種類

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              Genoa Bayのお花たち(パンジーと紫の花)

少なくとも週一ブログ更新という自分への約束を破ってしまいましたが、まあ無理せず「悠々・遊遊?」と、「遊び」理論のお話を続けましょう。

 

作家・批評家であるロジェ・カイヨワLes Jeux et les Hommes(『遊びと人間』)を、1958年にフランスで出版しました。彼自身、この本は、ホイジンガーの『ホモ・ルーデンス』のあとを受け継ぐものであると日本語版への序文の中で記しています。

 

カイヨワさんは、「遊び」の本質的特徴を以下のように説明しています。 (『遊びの人間』40ページからの引用)

①自由な活動。すなわち、遊戯者が強制されないこと。もし強制されれば、遊びはたちまち魅力的な愉快な楽しみという性質を失ってしまう。 


②隔離された活動。すなわち、あらかじめ決められた明確な空間と時間の範囲内に制限されていること。 


③未確定の活動。すなわち、ゲーム展開が決定されていたり、先に結果が分かっていたりしてはならない。創意の必要があるのだから、ある種の自由がかならず遊戯者の側に残されていなくてはならない。 


④非生産的活動。すなわち、財産も富も、いかなる種類の新要素も作り出さないこと。遊戯者間での所有権の移動をのぞいて、勝負開始時と同じ状態に帰着する。 


⑤規則のある活動。すなわち、約束ごとに従う活動。この約束ごとは通常法規を停止し、一時的に新しい法を確立する。そしてこの法だけが通用する。 


⑥虚構の活動。すなわち、日常生活と対比した場合、二次的な現実、または明白に非現実であるという特殊な意識を伴っていること。 

 

あらあら、デジャビュホイジンガーさんの言っていたこととあんまり変わらないですよね。

 

でも、三番目の未確定の活動というところが違いますね。

 

未確定ということですぐ思い浮かぶのが、偶然の遊び。ルーレットやトランプなど偶然に基づく遊びは金銭的利益をもたらすことがあります。ホイジンガーさん流遊びの本質的特徴の「自由な活動で、遊ぶことで何かの効果、利益を得ようとする行為ではない」と相入れないですよね

 

カイヨワさんは、ホイジンガーさんの定義に、未確定、不確定な特徴が挙げられていないのは、賭けがもたらす利益が問題視されていたから、説明しています。

 

カイヨワさんは、未確定・不確定性というのは、遊びの本質として大変重要であると主張します。結果がはじめから分かっていたら、人は遊びつづけるでしょうか?

たしかに、結果がわかっていたら、遊びの面白さは激減しますねえ。

 

カイヨワさんは、一見、利益を生むように見えるギャンブルでも、勝つ側と負ける側間の富の移動であって、富の生産ではない、と言い切っています。

 

一見遊びのようでも、この定義から外れるものは「堕落した遊び」だそうです。 例えば、ギャンブルで得た利益を生活の糧にしたら堕落した遊びということになります。

 

カイヨワさんは、人類の遊びを「意志⇔脱意志」「ルール⇔脱ルール」という2つの軸でとらえました。この2つの軸を交差させ生まれたカテゴリーが、競争、偶然、模擬、眩暈の四つになります。この遊びの分類がカイヨワ流遊び論の真骨頂でしょうか。

 

競争―意志+ルールは、参加者がルールの下で明確な意志を持って参加する類型を言います。例えばチェスなどがそうですね。これを「アゴン」(競争)といいます。


偶然―これに対し、ルールはあるものの、参加者の意志で進行するわけではない遊びもあります。例えば、ギャンブル。「勝ちたい」という意志は皆共通ですが、結果はそうした意志とは関係ありません。一方で、ルールは妥協の余地なく厳密に適用されます。これを「アレア」(偶然)と呼びます。


模擬― 一方、ルールの側が否定されるタイプの遊びもあります。例えば子供のごっこ遊びは、積極的な意志のもとで遊ばれるものの、勝敗は付きません。これを「ミミクリー」(模擬)と言います。演劇もここに含まれるでしょう。各人が何か他のものを演じ、他のものになったと信じる遊びですね。 


眩暈―そして、意志とルールのどちらも否定される遊び。カイヨワさんは「イリンクス」(めまい)という呼び名を与えました。回転や落下などの急激な運動によって、自分のうちに好んで混乱状態を作り出して、快感を追い求める遊びです。 小さい子供が訳もなくぐるぐるまわったりしているのも、この遊びにあたるのでしょうね。

わたしは個人的に苦手ですが、ジェットコースターとか、遊園地でわざと気持ち悪くなるような乗り物に乗って、楽しんでいる人は多いですよね。

 

カイヨワさんは、様々な遊びにおいて、この四つのカテゴリーのうちいずれかに属するか、またはいずれかかが優位を占めていると言っています。

 

たとえばポケモンカード。私の息子は幼い頃、夢中になっていましたが、これはアゴンのゲームでありながら、コイントスによるアレアの要素も強いゲームのようでした。 
さらに、ポケモンの世界観になぞらえてデザインされたカードゲームなので、ポケモンに出てくるキャラになりきってプレイできるところはミミクリ的なおもしろさもあったのかもしれないですね。 息子はどうもポケモントレーナー「サトシ」に一番感情移入していたような気がします。

 

規則は遊びを豊かで重要な文化的手段に変える、遊びの本質ではありますが、遊びの根源にあるのは、気晴らし、くつろぎ、即興などのことばで表される「自由」だと、カイヨワさんは言っています。この原初的なものがなければ、まず遊びは生まれないし、規則的な要素と組み合わさって豊かなものになる可能性もありません。

 

この原初的な力をパイディア(Paidia)、そしてその反対に位置するルドゥス(Ludus) 、つまり無償の困難(努力、忍耐、技、器用、窮屈な規約に従わせる力、 用意された規約や課題に挑もうという気持ち) を求める嗜好が組み合わさると遊びは、とてつもなく楽しく、遊び甲斐のある活動になるというわけです。


パイディアとルドゥスの割合を、絶妙なさじ加減にするというのが、ゲームクリエーターや教育、保育に関わる人たちの腕にかかってくるのでしょうね。面白さのさじ加減ですね。あまり無秩序でもだめだし、あまり堅苦しく規則で縛り付けるのもおもしろくないですしね。

 

遊びを理論的に研究した先人は他にも多々いらっしゃるのは、承知の上、これで一旦「遊び」の理論についてのお話は終わりにさせていただきたいと思います。次は言葉の中の「遊び」について、お話したいと思います。