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ドラジャパクイーンの本職:もぐりの日本語教師誕生秘話1

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オンタリオ州ミシソガで見かけたBrown-eyed Susan (オオハンゴンソウ属)

カナダ・ビクトリアの大学で日本語を教えて早32年。トロントでの大学院生時代も含めると、37年も日本語を教えていることになります。

 

トロント時代、日系子女の為に作られた日本語学校では6歳児を相手に苦戦し、高校生相手に、はたまた苦戦。

 

高校生が私の日本語教師歴で一番手強い相手でしたねー。わたしもまだ若く、またアジア系の女性は実際年齢より若く見られることもあって、初めのころは、完全になめられていました。女の子たちは、ばっちりお化粧をして、大人っぽかったです。ある時、クラスにお客様が見学に見えたのですが、わたしは生徒だと思われ、大人っぽい女子高生が先生に間違われたのをよく覚えています。

 

そんな苦戦を重ねていましたが、ある時、6歳児と同じく面白い授業をすると、高校生もキチンと向き合うという、当たり前のことに気づくのです。それは、彼らの興味のあることをプロジェクト形式で調べさせ、書かせ、発表させるという試みでした。いつもは寝ているか反抗しているような男子生徒が目を輝かせて、質問してきたのには驚きました。

 

子供っぽいとバカにするかと思いきや、アニメマンガ日本昔話にも喰いついていました。

 

子供と高校生を教えるだけでなく、大学では日本語コースの助手もしました。日本語学や日本語教授法も学んだことがないまま、初級とはいえ外国語としての日本語を教えるという無謀なことをしていました。助手と言っても、授業も担当させていただいたのは、貴重な経験でした。

 

大学院では、英語でのクラスで苦労し、自分に自信がなくなっていたころに、日本語を教えることになり、むずかしかったですが、母語をカナダ人学生に教えるということで、少しずつ自信を取り戻していったのをよく覚えています。わたしでも役に立てることがある、と自覚できたのは、大変うれしかったですね。ただ、日本語を教えるのにエネルギーを割きすぎて、博士論文の執筆が滞ってしまいましたが。

 

そんなある日、日本語の助手をしていた学科の掲示板に、現在、勤務している大学の公募ポスターが貼ってあるのに、気づきました。「日本語講師募集。2年契約だが、更新可。資格としては、博士号を持つ者、もしくは近々博士号取得見込みの者、日本語教師歴がある者」というような内容だったと思います。40年近く前のことです。もちろん、インターネットやE-メールなどがない時代。履歴書などタイプライターを使って用意した書類を郵送しました。

 

1週間後、家に電話がかかってきました。(携帯電話も普及していない時代です。)面接のために、ビクトリアに来るように、とのこと。1987年2月上旬、ビクトリアを訪れました。トロントは冬の真っただ中。根雪があちらこちらにあるとき、ビクトリアは早咲きの桜が咲いており、とてもきれいでした。なんとか面接と授業を終え、トロントに戻った翌日、仕事のオファーを電話でもらいました。

 

9月から新学年が始まります。ということで、滞っていた博士論文執筆に取り掛かり、約4ヶ月で終わらせました。あんなに勉強したことはないというほど、集中して論文を書き上げました。わたしはこどものころから、勉強時間が短いほうで、徹夜をしたことがなかったのですが、このときは12時間ぐらい、論文関係のことをしていたのではないでしょうか。ともだちに「ゾンビーみたい。」と言われ、心配されていましたね。

 

7月はじめに論文を大学に提出しました。

 

8月にはビクトリアに引越し。新天地での生活が始まりました。

 

次回は、いよいよ新米日本語教師(本職でありながらモグリ)としての生活、思いについてお話ししましょう。