ドラジャパクイーンの教訓1:学会発表での失敗から学んだこと
さてさて、「東京ノート」を使った授業も順調に進み、調子に乗ったわたしは、「このすばらしい取り組みを学会で発表してみよう!」と思いつきました。軽はずみというかフットワークの軽いわたしは、某学会での発表申請をし、めでたく発表する運びに。
いかに演劇が日本語教育、特に会話教育に役にたつかを滔々と話しました。また「東京ノート」が大変すばらしい教材であること、などなど演説したのですが、聴衆の反応はイマイチ。
めげずに何度も発表したのですが、わたしの主張が空回りである、ということが、鈍感力に自信のあるわたしでさえ明らかでした。
ある学会で、発表の場では質問をされなかったのですが、休憩時間にたまたま話した方に「演劇」と「日常」は相反する概念ではないか、どうやって日常会話をドラマチックな演劇を使って教えるのか、という質問をされました。
私が考えていた「演劇」は荒唐無稽なお芝居ではありませんでした。むしろ、普通の人たちの日常生活を切り取ったような「演劇」を前提に考えていたので、そのような演劇で話されるセリフは日本語日常会話のモデルになると信じきっていました。
私にとっては目の鱗が落ちた貴重な質問でした。
これこそ、平田オリザさんのいう「イメージの共有」ができてないことから生まれたミスコミュニケーションのいい例です。
「イメージの共有」って、何?
ことばを使う時、特に概念などの抽象的なことがらについて語るとき、いわばバイアスのかかった解釈に基づいた定義もしくはイメージでもって話していくことが多いのではないのではないでしょうか?
この目の鱗が落ちる体験がきっかけで、自分が大事だと思うことについては、まず自分の考えていることは、「こういうことなんです。たとえば、こんな例がありますね。」など具体的な例をいくつか挙げていくようにしています。
英語の表現で “be on the same page”というのがあります。共通認識とでもいうのでしょうか。
しかし、共通認識と言っても、わたしが考える「演劇」のイメージを他の方に強制するということではありません。
Aさん:「わたしは演劇についてこう考えているんです。」
B さん:「そうなんですね。わたしの考えとは違いますが、あなたの考えはわかりました。」
また英語の表現で恐縮ですが、わたしのお気に入りがあります。
Agree to disagree. お互いの意見が違うとき、どちらかの意見を強制したり、されたりするのではなく、違いを認め合う、ということでしょうか。
いつもAgree to disagreeと言っていると前に進まなくて、何も決まらないかもしれませんけどね