ドラジャパクイーンのお部屋へようこそ!ドラマ・演劇・言語教育について思うこと

ドラマ・演劇を日本語教育に活用するアイデアをシェアする場です。

ドラジャパクイーンの教訓1:学会発表での失敗から学んだこと

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晩秋の菊ー宇治平等院にて

さてさて、「東京ノート」を使った授業も順調に進み、調子に乗ったわたしは、「このすばらしい取り組みを学会で発表してみよう!」と思いつきました。軽はずみというかフットワークの軽いわたしは、某学会での発表申請をし、めでたく発表する運びに。

 

いかに演劇が日本語教育、特に会話教育に役にたつかを滔々と話しました。また「東京ノート」が大変すばらしい教材であること、などなど演説したのですが、聴衆の反応はイマイチ。

 

めげずに何度も発表したのですが、わたしの主張が空回りである、ということが、鈍感力に自信のあるわたしでさえ明らかでした。

 

ある学会で、発表の場では質問をされなかったのですが、休憩時間にたまたま話した方に「演劇」と「日常」は相反する概念ではないか、どうやって日常会話をドラマチックな演劇を使って教えるのか、という質問をされました。

 

私が考えていた「演劇」は荒唐無稽なお芝居ではありませんでした。むしろ、普通の人たちの日常生活を切り取ったような「演劇」を前提に考えていたので、そのような演劇で話されるセリフは日本語日常会話のモデルになると信じきっていました。

私にとっては目の鱗が落ちた貴重な質問でした。

これこそ、平田オリザさんのいう「イメージの共有」ができてないことから生まれたミスコミュニケーションのいい例です。

 

「イメージの共有」って、何?

 

ことばを使う時、特に概念などの抽象的なことがらについて語るとき、いわばバイアスのかかった解釈に基づいた定義もしくはイメージでもって話していくことが多いのではないのではないでしょうか?

 

この目の鱗が落ちる体験がきっかけで、自分が大事だと思うことについては、まず自分の考えていることは、「こういうことなんです。たとえば、こんな例がありますね。」など具体的な例をいくつか挙げていくようにしています。

 

英語の表現で “be on the same page”というのがあります。共通認識とでもいうのでしょうか。

 

しかし、共通認識と言っても、わたしが考える「演劇」のイメージを他の方に強制するということではありません。

Aさん:「わたしは演劇についてこう考えているんです。」

B さん:「そうなんですね。わたしの考えとは違いますが、あなたの考えはわかりました。」

 

また英語の表現で恐縮ですが、わたしのお気に入りがあります。

 

Agree to disagree.  お互いの意見が違うとき、どちらかの意見を強制したり、されたりするのではなく、違いを認め合う、ということでしょうか。

 

いつもAgree to disagreeと言っていると前に進まなくて、何も決まらないかもしれませんけどね

 

 

 

 

 

ドラジャパクイーンの本職:もぐりの日本語教師奮闘5

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秋の夕空

この「東京ノート」を初めてみたときの衝撃は20年経った今でも忘れられません。平田オリザさんの戯曲・演出によるお芝居は「芝居がかった」セリフとセリフ回しがなく、はじめのころは、全部アドリブではないのかと疑われていたらしいです。青年団のお芝居を見たことがない方は、ぜひご覧になってみてください。

青年団の俳優さんたちは、ご自身の身体、また共演する方との関係性、周りの環境といったことに対する意識というかコントロールが完璧にできる方たちです。ですから、ふつうの人がよくする言いよどみ、いい間違いがありません。ということで、彼らの話す日本語は、自然な日本語を限りなく蒸留していった後のエッセンスと言うべきもので、話し言葉指導のためには、理想的な教材だと思いました。

しかし、「東京ノート」は90分の芝居で、同時進行の話がいくつも入っているので、そのまま学生にビデオを渡す訳には行きません。音声やイントネーション、間の置き方などにも注意を払ってほしいので、ビデオ上の音声では不十分です。また、聞き取り、内容理解のためにも、工夫が必要でした。

そこで、俳優のセリフを音声、文字で何回でも聞いて、見られるようにCD-Romを作成しようと考えました。大変ありがたいことに、平田オリザさん、青年団、上演ビデオを販売している紀伊国屋書店からこの日本語CD-Rom教材開発のために自由にビデオ、脚本を使わせてもらえることになりました。さらに幸運なことに、数学者で日本語学習を趣味にしている友人がプログラミングをしてくれることになりました。2001年になんとか試作品ができました。

週毎の内容理解に関する課題を仕上げるために各学生にCD-Rom、ビデオを一部ずつ貸与しました。この課題の中で何回もCD-Romを使わないと答えられないような質問と、すぐ答えられるもの、また意見を聞くものの3種類の質問とその週に扱ったセグメントのあらすじを書かせました。

教室以外での負担がかなり多いことから、やる気のある学生だけが残り、教師としてはとても楽しいクラスになりました。内容理解以外にも、毎週グループによるスキット発表が課せられました。スキットのテーマはその週で焦点となったコミュニケーション上のストラテジー、たとえば一週目はよく知らないもの同士がきまずさをさけるため、共通の話題を探す、そしてあいずちをうつ、かつ発話と発話をオーバーラップさせることなど、条件を与え、それ以外は学生の自由にさせました。「東京ノート」に出てくる登場人物であるプロの俳優のせりふまわし、目線、身振り、表情などをお手本とさせました。

 

東京ノート」を上級日本語聴解・会話講座の主教材に使い始めてからかなりの年数が経ちます。今まで100人近くの学生がこの講座を取りました。講座終了直後でなく、しばらく経って、特に日本に行った人たちから、「東京ノートでコミュニケーションの仕方を習っておいて本当に助かりました。」という感想をもらいます。「日本でいろいろなコミュニケーションの状況に出会って、どんな風に対応したらいいか分からないことがありました。そんなとき、「東京ノート」のいろいろな場面が頭に浮かびました。ああ、今の状況はあの場面とそっくりだなあ。不思議なことに適切な反応がすっとできました。今になって、「東京ノート」で習ったことが自分の一部になっていたんだと気がつきました。」元教え子から忘れたころに、こんな感想をもらうのは、教師として大変うれしいことです。

以下の学習者の生の声をお聞きください。

 

*********

リンジー

私は割合長い間、日本語を勉強してきて発音や聴解力も高い方だと思っていました。でも、日本人が話している日本語を聞き取るのはとてもむずかしいです。また、日本の人のように話せるようになりたいと思っています。普通の日本語の教科書には自然な日本語、特に話し言葉がでてこないし、また日本のテレビドラマの日本語を聞き取るのはとてもむずかしいです。

ビクトリア大学の上級日本語会話と聴解のコースで使った、東京ノートCDで、自然な日本語を聞いて、その後、自分の発音、イントネーションとの違いがすぐ聞けるというのは大変便利でした。何回も同じところが聞けて、練習できるので、自分の発音とイントネーションはよくなったと思います。それから、何回も聞いているうちに、あいずちの打ち方など、自然なコミュニケーションが身についてきたようです。

 

ブライアン

ビクトリア大学で僕が取った上級日本語会話と聴解のコースについて、感想を述べたいと思います。コースでは「東京ノート」という劇を使いました。日本語のレベルが中級ぐらいの人達が日本語、特にあいずち、間など、話し言葉の微妙なニュアンスを勉強するのに、大変役に立つコースだと思います。クラスではスキットをつくったりして、話し言葉を練習するチャンスがたくさんありました。また、日本語の自然なコミュニケーションを「東京ノート」の中で、見て、聞いて、それを真似することによって、いままで日本人が話す日本語で変だと思っていたことの答えがすこしずつですが、分かったような気がします。たとえば、日本人の友達がよく頭を縦にふるのが、あいずち、つまり、「聞いていますよ。」という信号であることなどです。

 

ティー

ぼくは日本のテレビ番組を見るのが好きです。バラエティ番組などで使われる言葉は日本語のクラスで絶対習いません。教科書の会話文も「こんなこと、日本人は本当に言うのかな?」といつも思っていました。日本人がはなすふつうの日本語が「東京ノート」では習えるので、うれしいです。スキットを作るのもとても楽しかったです。

 

マーク

僕は日本で3年くらい働いたことがあります。その時、近所の人や職場の人とコミュニケーションがうまくいきませんでした。まあ、僕はガイジンだからみんなはがまんしていたのかも知れません。カナダに戻って、ビクトリア大学で日本語を勉強し始めました。はじめはいくら勉強してもわからないことばかりで、イライラしていました。上級日本語のコースを取って、少しずつ僕は変わっていきました。上級日本語会話のコースは13週間だけでしたが、毎週、東京ノートCDを使わないとできない宿題や、スキットを発表しなければなりませんでした。ふつうのコースよりたくさん勉強したと思います。あるとき、僕はあいずちを前より多く使っていることに気がつきました。そのころから、日本語はあいまいで、わかりにくいと思って、前はイライラしていたのに、あまり感じなくなりました。今は卒業して英語を教えていますが、いつか日本で勉強をしたいです。

 

 

 

 

ドラジャパクイーンの本職:もぐりの日本語教師奮闘4

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季節外れの彼岸花〜ビクトリアにて

前に、久しぶりに初級日本語を担当しているとお話しましたね。初めて日本語を習う人たちが30名もクラスにいます。教室内であまり練習する時間がなく、個々の学生さんのための行き届いた授業とはとうてい言えない状況です。

クラス外での自習がとても大切です。そのためのリソースも大学オンラインクラスサポートシステムにアップしているのですが、それを使う人とそうでない人の差がかなり開いてきているようです。

6歳児に教えるのと違い、大学生はよい成績を取るという大きな目的・目標がありますので、とくに面白い授業をしなくてもまあ、ついてはきてくれます。

そこに大学生を教える教師の大きな罠があります。

テストに時間を取りすぎてしまうこと。テストが勉強をする動機になってしまうのですね。テストに時間を取られて、肝心の授業の時間が短くなってしまうことに常々疑問を抱いていました。

しかし、そうするとテストがないとクラスに来なくなったり、勉強しなくなる学生さんも出てきます。そして、テストのための日本語学習になり、話したり聞いたりというコミュニケーションの基本がおざなりになってしまいます。

「声に出して読みたい日本語」というベストセラーを覚えていらっしゃるでしょうか。教育学者である斎藤孝さんが現在の国語教育に警鐘を鳴らすものとして話題になりました。

国語教育、子どもたち、若者の日本語から身体性が奪われ、ことばの字面だけが上滑りをして、ひとり歩きしてしまう現象を憂う人たちに訴えるものをこの本は持っていたのだろうと思います。

母語としての日本語だけでなく、外国語として日本語教育に関わっている人たちも、どちらかというと初級の段階に発音、イントネーションといった音声、音韻面に時間をかけるけれど、その後はあまり時間をかけないというのが普通ではないでしょうか。

実は私もその一人でした。20年以上前のことです。中級以上の日本語学習者のための発音指導の一環として、教科書のなかに載っていた「つる女房」を音読させました。成績の善し悪しに関係なく全員しどろもどろ。

私は得意になって、模範朗読をしました。数年、中級以上のクラスで音読を奨励したのですが、どうもうまくいきません。

また気がついたことがいわゆる日本語教科書にのっている日本語が日本語として練れていないということでした。

以前、私自身も読解文を自分で書いたりしていましたが、個人の癖があって、同じ表現を繰り返し使ってしまったり、声に出すとリズムのない駄文しか書けないことが分かり、それ以来、上級以上の学生たちにはプロの文学者、随筆家の文を教材として与えています。

私の個人的な好みで選んだ材料が学生さんの感覚にあうかどうかは全くの賭けですが、今のところ内容が面白いと難しくても食いついてくるようです。音読をさせやすいという理由で、一人称を使って話が運んでいくもの、また会話が多いものを選んでいます。

以上の試みは主に読解のクラスで行ったことです。今度は上級会話のクラスを担当することになり、本当に困りました。

おなじみの状況かも知れませんが、会話のクラスでは練習の必要な人が押し黙ってしまい、いつもおしゃべり上手な学生さんにクラスを独占されてしまうことが多いです。

困窮していた私に僥倖ともいうべきことが起こりました。勤務大学の同僚がその当時、劇作家で劇団青年団の主宰者でいらっしゃる平田オリザさんの「東京ノート」脚本の英訳を完成したばかりでした。

何気なく紀伊国屋書店作成の「東京ノート」ビデオ版を借りてじっくり鑑賞したところ、その中で使われている日本語が、本当に自然だったのに驚きました。

脚本とその英訳も読み、これを会話クラスの主教材にできないかと思い始めたのです。

 

 

ドラジャパクイーンの本職:もぐりの日本語教師奮闘3

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ビクトリアの秋ーfeat.ポント

日本語を学んでいる人たち、特に日本以外の地で日本語を勉強している人たちにとって、最大の難関は日本語を聞いたり、話したりする機会が非常に限られていることだと思います。

 

日本語を教えていて、教科書の中の「会話」に違和感を覚えることが多々あります。たとえば、この会話文はどうでしょう。

 

クリスマスに何をあげたらいいかと聞かれた人が、「xxさんはいつも同じシャツを着ているから、シャツをあげたらどうですか。」このアドバイスに対し、「それはいいかもしれませんね。」

 

これがくだけた言い方であれば、この二人の関係は近くて、率直なアドバイスをしてあげているんだなあと、なんとか納得できます。しかし、この文をみると、丁寧な言葉使いをしながら、ずいぶん失礼なことを言っている変な人と、おかしなアドバイスにあいづちを打つこれもまた変な人同士の会話になってしまいます。

お笑い番組ではいいかもしれませんが、日本語学習者にとっては適切なモデルにはならないと思います。

 

特に失礼ではないけれど、「こんな風に母語話者は言わないんじゃない?」という会話文も目にすることがあります。

京都へ行く新幹線で隣に乗り合わせた人同士の会話で、「京都へは観光でいらっしゃいるんですか。」それに対し「ええ。」。その後、「キャシーです。どうぞよろしく。」、「山田えみです。どうぞよろしく。」と自己紹介が唐突に始まってしまいます。

 

日本語教科書の中でよく「会話文」として提示されているテキストは、往々にして会話としてはきわめて不自然であることが多いようです。従来の日本語教科書では、各課の「会話」はその課で扱う文型や文法事項の意味、用法を認識させるために、その実例提示の場として機能しています。教科書会話の不自然さは、コミュニケーションを非常に狭い意味での情報伝達ととらえているところから生じていると思います。

それでは、広い意味でのコミュニケーション活動の当事者が楽しめるようにするには、教師としてどんなことを考えたらいいのでしょうか?

 

ある時、日本から大学生が5人、クラスにゲストとしてきてくれたことがあります。みんな元気で、明るい学生さんでした。グループを作って、わたしの学生さんたちと話してもらったところ、いつもは貝のようにだまっている学生さんが、一所懸命つたない日本語で話しているではないですか。しかも、笑ったりして。あきらかに、生き生きとしていましたね。

 

同じ世代、しかも同じ学生同士、さらに魅力的な人。こんな人と友達になりたいという動機づけで話す、というのはよく理解できますね。その反対に、いつも顔を合わせている先生、しかも間違いを容赦なく指摘する恐い先生だったら、話したくなくなるのはよくわかります。

 

さて、教師として、学習者のコミュニケーション能力を伸ばすにはどのような工夫ができるのでしょうか。上に述べたコミュニケーションの考え方に基づくと、ことばそのものの能力を伸ばす以前にしなければならないことがあるのに気づきます。

 

第一に、学習者が話したい、他の人の話を聞きたい、また他の人とかかわりを持ちたい、と思える環境を作ることが大事でしょう。教師が怖い顔をして、学習者同士に会話を無理強いさせる場面を想像してください。さらに学習者が間違えるそばから、教師が間違いを指摘し厳しい態度で即お直しというのでは、話が弾むわけはありません。

 

それから、人それぞれ、コミュニケーションのスタイルが違うことを認め、それを尊重することも重要でしょう。

 

私は人見知りで、よほどのことがないと、自分から知らない人に話しかけることはありません(でした!)しかし、知らない人が困っているようであれば、話しかけると思います。また人の話を聞き、それに対し質問やコメントをする方が気楽ですが、ある人は自分から話しかけるのが好きかもしれません。またことばに出さなくても、表情豊かに人の話に反応する人もいます。教師の役割は各学習者のコミュニケーションスタイル、つまりふつうの状況での人とのかかわり方パターンをつかむのが大切であると思います。一番自分らしい、一番楽なパターンは何なのか。

しかし、同時に状況(話す相手、話題、場面)によって、同じ人でもパターンが変わるということも認める必要があります。

 

また自分の例を挙げて恐縮ですが、私は人見知りで、口数が少ない方だと自覚していましたが、親友とのおしゃべりでは2時間でも3時間でも楽しんで話し続けることができます。この親友とのおしゃべりでは一体何が起きているのでしょうか。また岡田美智男さんのコミュニケーション理論を援用したいと思います。私が自由に楽しみながら話せるのはまず親友に対する絶対的な信頼があるからです。信頼、安心感に基づき、自由に話す行為に身をゆだねます。このような行為をエントラスティングと呼んでいます。これは「一か八か」の賭けではありません。親友がしっかりと私を受け止めてくれるのを知っているからできることです。しっかりと受け止める行為をグラウンディングと呼びます。受け止めるということは、必ずしも私の話に同意、賛成することではありません。反論も考えられますが、反論の仕方は公正で、私を傷つけるという意図はありません。このエントラスティングとグラウンディングの行為は親しい人の間でよく観察されます。素の自己を受け入れる土壌があったら、人はもっと気楽に他者とかかわり、コミュニケーションを行えるのではないでしょうか。

 

語学教育におけるエントラスティングとグラウンディングを成立させる条件として、いくつか教師ができることがあります。

 

「教師と学習者間の信頼関係を築く」には、教師サイドからの働きかけが必要です。はじめの段階にどんなことがクラスメートの気持ちを傷つける可能性があるのかをかなり具体的に説明することは肝要です。このときも、教師が権威を振りかざして、「してはいけません!」と命令をするのではなく、「もしだれかがこんなことをしたら、何が起こるかな?」というように具体的なケースを提示しながら、みんなで考えてもらったほうがいいと思います。

 

この「もし~だったら」という設定をすることですでに演劇的な世界に足を踏み入れています。そして、ゲームでもスポーツでもごっこ遊びでも演劇でも「遊び」的な活動には必ずルールがあります。たとえば、お母さん役をしている子どもに向かって、「あんたはただの子どもじゃない」と言ったら、お母さんごっこの世界は崩壊してしまいます。サッカーはなぜ足だけでボールを動かすのでしょうか。ゲームのルールは往々にして合理的必然性はありません。

 

自信過剰タイプ、話しすぎタイプの学習者に対処する方法としてこのゲームのルールをクラス全体で決めます。たとえば、話すときには、1つの文しか言ってはならないなど人工的なルールを作り、みんながそれに従うのです。そして、上がり症の人たちのためには3回トライのルールを作るなどして、不必要に緊張させないような工夫ができます。

 

以上のようなことを考えて授業に臨めるようになるのに、実はかなりの年数がかかっています。また、自分だけで思いついたことでは決してありません。平田オリザさんの演劇に出会ったこと、ロボット研究者、岡田美智男さんの著書やご本人と接することでじわじわと言語教育とコミュニケーションに対する考え方が変わっていったのだと思っています。

 

 

 

ドラジャパクイーンの本職:もぐりの日本語教師奮闘2

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島根県安来足立美術館近くの旅館

9月の第1週から教え始めている初級日本語講座。最後に教えた記憶が定かでないほど久々です。年齢のせいか、近々の過去よりずーっと前の過去の記憶が鮮明に蘇り、現在の勤務校で教え始めたころをすこしふりかえります。

32年前のわたしは、自分で言うのもなんですが、相当若くみられていました。33歳だったんですけどね。

まだ車の免許もなく、バスで移動していたとき、バス停で待っていると、学部生にナンパされそうになったことも!教え子のなかには、一旦社会に出てから大学に入るという「おとな」の学生さんもいらっしゃいました。先生と呼んでくださるのですが、「今度、いっしょに食事でもどうですか?」とお誘いもありましたね。これはまだいいのですが。

若く見えるということで不利なことも多々ありました。そのうえ、アジア人女性であり、わたしはおとなしく見られがちだったので(中身は正反対なんですけどネ)、学生に脅されそうになったこともありました。テストの点数が気に食わない、点数をもっとよくしろ!などと言われたこともありました。おとなしく見えても中身はそうでないので、そんな脅しにのるわたしではありません。わたしなりにビシッと、そんなことはできない、ほかの一所懸命頑張っている学生にフェアじゃないでしょ!と返しました。

歳を取っていろいろな経験値を積むというのは、いいことだなあと思いますね。おかあさんどころかおばあちゃんの年齢に達したわたしに脅しをかける不届き者はいませんが、泣き出す子が時々いるんですよね。それも困ります。

 

またまた脱線してしまいました。学生さんの会話願望の話でしたね。

 

今の学生さんからはさほど聞かないのですが、すこし前の学生さんには、「会話が上手になって、日本語をペラペラと話したい」という希望というか目標をよく聞いたものです。「ぺらぺら」と言う部分をFluentlyでなく「ぺらぺら」と言っていました。

しかしながら、教えるわたしが母語での会話もそれほどスムーズにできないのに、わたしの学生さんは、どうやって日本語ぺらぺらになれるんでしょうか。

 

どのクラスでも間違うのを恐れてだまってしまう人たちが必ずいます。習った

文型などの練習のため、質問して答えるペアワークなどをしてもあまり熱心で

はありません。声も小さく、また本に書いてある文を読んでしまいます。これ

では、意味のあるコミュニケーションができるようになるはずはありません。

自分から何か声をださなければいけない状況を作るのが教師の役割、手腕だと

思いますが、なかなか難しいものがあります。また、教室外でばったり学生さ

んに会い、「あ、こんにちは。お買いもの?」と話しかけても、「.あっ、 .

.. . .。」と緊張のあまり、声も出ないという人も珍しくありません。このよ

うなとき、外国語を習うのは、特に話したり聞いたりの練習は、スポーツ、音

楽の練習など同じように身体活動なのだなあと、つくづく実感します。スポー

ツや音楽が日々練習が必要なように、外国語習得も習慣性を要します。じっく

り考える前に身体が動くように訓練をする必要がありますねー。

 

それでは、中級以上の学習者はどうでしょう。語彙、文法の基礎を習得してい

るので、習ったことを応用したら日本語でコミュニケーションができるはずで

す。中級以上の講座では日本へ留学して帰ってきた学生さんと日本へは一度も

行ったことがない学生さんがクラスメイトになることが多いのですが、これが

また問題になることがあります。日本である期間生活したことがある人は往々

にして、日本語で話すことにあまり抵抗を感じません。また「日本語が上手」

と日本人に褒められることが多いと思います。素直な人はその評価を額面通り

受け取り、自分は日本語を話すのが非常に上手であると自信を持ち、ますます

話すのが好きになるということになります。文法、語彙、また敬語などの待遇

表現上の間違いがあっても、なんとか意思の疎通はできます。間違いを直され

る場合はいいですが、ブロークンジャパニーズのままで自信過剰になる場合も

あります。こんな学生さんがクラスにいると、日本に行ったことがない学生さ

んには大いなる脅威となり、この日本帰りの学生さんばかりがクラスで話し、

他の人たちは委縮して貝のようにだまりこむという図式になります。

 

日本から戻ったばかりの学生さんにとって、第一の、また最大の問題は自分の話し

言葉に問題がないと思っていることでしょう。自信を持つことは言語運用にと

って大変重要な要素ですが、日本語を話すことに問題がないと思うのはそれこ

そ問題です。特に話すことに重きを置き、話すことを楽しむ文化から来た学習

者は話しすぎて、相手の話を聞かないという間違いを犯しがちです。

 

話す相手、状況、話題などによって、待遇表現を適切に選ぶという能力は上級

の学習者でもなかなか習得するのは難しいと思います。敬語を使いすぎて、話

す相手との距離を取りすぎたり、また親しみを増そうという動機からくだけた

 文体を選び目上の人に失礼な人だと思われたりすることもあるでしょう。問題

なのは、自分が間違いを犯していることに気付かずにいることだと思います。

日本語母語話者でも待遇表現の調整というのは訓練の必要があるものですから

、外国語として日本語を習っている人たちにとっては難関であるのは当然です

。待遇表現というのは単に適切な文体、表現が選択できるだけでなく、イント

ネーション、声の大きさ、口調など、言い方にも調整が必要です。それに加え

、姿勢、身振りなどの非言語要素も大変重要な役割を果たしています。極端な

例を挙げると、謝罪する場合、どんなに言葉を尽くしても、言い方や態度が横

柄に思われたら謝罪は成立しません。その逆に、無言でもお辞儀などの非言語

コミュニケーションの方がはるかに謝罪の意思を伝えることができる場合もあ

ります。日本語学習者によく見られる間違いが言葉の選択、言い方、態度のミ

スマッチです。たとえば、先生の研究室に入るなり、どかっとイスに座り、そ

れから敬語で「先生、今お忙しいですか?」などと聞く学生です。また自己紹

介をしてお辞儀をする際にポケットに手を入れている学生など、例を挙げると

キリがありません。

 

わたし自身、母語の日本語をぺらぺらと話すこともできない、そんな状態で、上級会話・聴解の講座を担当することになりました。

 

試行錯誤の連続で、日本語教師としての能力と適性についてかなり悩んだ時期でした。

 

次は、わたしの日本語教師生活で一番苦労したときのお話をいたしましょう。

 

 

ドラジャパクイーンの本職:もぐりの日本語教師奮闘1

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秋の気配:ビクトリアではありません。宇治の平等院です。

前にお話ししたかと思いますが、カナダの大学院で博士課程の勉強をしておりました。そもそもは、演劇・ドラマなどのクリエーティブな活動を英語教育に取り入れたいと思い、ドラマ・演劇教育の大家のもとで博士課程1年目を始めました。その学科はカリキュラムスタディーズという、言わばなんでもありの学科で、フレンチイマージョンの権威、コミュニカティブアプローチの権威、継承語教育の権威、などなど今考えると錚々たる教授陣が属する学科でした。大学院なので、必修科目は少なかったのですが、一応カリキュラム概論のような講座をとることに。

 

そこでもアッと驚くことがありました。カリキュラム概論だから、教案作りでもするのかと思いきや、カリキュラムの背後にある歴史、政治、社会的な側面やまたカリキュラムを作る側、その影響を受ける側の力関係や、作る側の社会・政治的な姿勢などについて、議論する講座だったのです。英語力不足で全部消化しきれず苦戦した授業でした。また「カリキュラム」イコール「教案」という先入観を根本から覆す体験でした。

 

わたしの先生は、のち博士論文の指導教官になっていただくのですが、Hidden Curriculum(隠れたカリキュラム)ということをよくおっしゃっていました。1960年代後半にフィリップ・ジャクソンさんと教育学者が造ったことばのようですが、その後、教育学や社会学の分野でよく使われるようになったようです。三省堂大辞林の定義は以下の通りです。

 

隠れたカリキュラム 〔hidden curriculum〕

社会学用語。学校教育の公式カリキュラムの教授過程における教師の行動を通じて暗黙に伝達される実践的な知識。学校に適した行動様式や男女の役割期待が習得されてゆくとされる。

 

「隠れた」というとネガティブな印象を受けますが、必ずしもそうではなく、現場で実際に伝え・伝わっていることは、明示的な側面とそうでない面があるということでしょうね。

 

「Unwritten Rule」とか「暗黙の了解」など、似たような概念・表現がありますね。

 

日本語を教えていて自分のうちなるhidden curriculumに気づかされることが度々あります。何年もあとに、「あっ」と気づくこともあるし、学生さんの何気ないことばですぐ気づくこともあります。

 

15年ぐらい前でしょうか?上級日本語を教えていたときのことです。そのときのテーマは、敬語とかの丁寧な表現だったと思います。敬語をどのような場面で使うとか、誰に使うとか、マニュアル的に教えていたと思います。

 

授業が終わったあと、歴史専攻のよくできる学生さんに、「日本語の先生、そして教科書はステレオタイプ的に日本を紹介しますよね。」と流暢な日本語で言われたのです。その時は、「そうね。」と流していました。彼の言いたいことがよくわかっていなかったのですが、頭の片隅に彼のコメントが、ずっとひっかかっていました。

 

数ヶ月後だったか、数年後だったか、記憶がおぼろげですが、

 

日本語のクラスで「日本では____________________するのです。」   「日本人は   _________________です。」と、説明する私自身の発話にぎょっとしました。

ああ、これがステレオタイプ! こういうことを、あの優秀な学生さんは、伝えたかったのね。

 

他の気づきは共通日本語(まあ、標準語とよく呼ばれているものですね)に関したものです。

 

博士課程時代、日本語講座の助手を数年させていただきました。

 

昔のことですので、インターネットなどありません。

 

話し言葉としての日本語のモデルは、教師や助手でした。当時は東京方言をベースにした共通日本語を学生に教えるべきであるという考え方が広まっていたようです。

 

ですから、単語のアクセントやイントネーションの指導(というか、ただリピートアフターミーと言って、練習させただけです)は、東京生まれ育ちのわたしには、非常に楽でした。

その時に、関西出身の先生が上司でしたが、東京風に発音するのに苦労されていたのが印象に残っています。テストにはイントネーションを表す線を書かせたりしていました。

 

もちろん、多くの人にとって聴きやすい日本語ということで、全国区の共通語を教えるというのは、実用的だと思います。

 

大学院生時代に、たまたま東京方言(東京方言もいろいろ種類がありますが、それは置いておいて)話者であったということで、学生のまえで日本語を読むというお役目をいただき、ちょっと得意になっていた自分がなつかしいようなはずかしいような。 

 

その時の自分に、言ってやりたいです。「日本語の多様性について、どう思うんだ!」と。

 

次回は、学生の「会話が上手になりたい。日本人のようにペラペラになりたい。」という願いについて、お話しようかと思います。

 

 

 

 

 

 

 

ドラジャパクイーンの本職:もぐりの日本語教師誕生秘話3

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遅咲きのゆり(ビクトリア市立図書館)

わたしが日本語を教え始めた1980年代。そのころ、初級日本語の助手としてカナダ人の学生さん相手に日本語を教えていた頃、主に使っていた方法は、オーディオ・リンガル・メソッドと呼ばれるものです。


オーラル・オーラル教授法(Aural-Oral Method)、模倣記憶反復教授法(Mim-Mem Method)、また、もともと兵士の語学訓練のために考案されたものであったため、アーミー・メソッド(Army Method)などとも呼ばれます。

この教授法を提唱したフリーズさんは、学習者が学ぶべきことは、「まずその言語の母国語話者の話し言葉を理解し、その音声的特徴を聞き分けて、自らの発音をそれに近づけるよう努力し、次に文法構造つまり、その言語の形態や配列を学習して、それらを無意識に自動的に反射的に使えるようになる」ことであって、それが可能になってはじめてその言語を習得したことになると言っています。

つまり、自動的に‘話せる’ことが学習の目標になっています。いいかえると反射行動のように、外国語が話せるようになるようにするということです。

その目標を達成するために、学習を五つの段階すなわち、

① 耳からの聞き取りによる理解
② モデル発音の模倣
③ 発音や文型の反復練習
④ 文の一部を変化させる練習
⑤ 質問に対して適切な答をする練習

に分け、次々に学習を深化させ、最終的に自動的に‘話せる’ようにする方法が考案されました。

①は、目標言語を聞いて、その意味を理解することで、聞き取り練習として行われています。

②は、教師や録音されたモデル発音をまねて発音することであり、発音練習と言われています。

③は、②の発音の模倣を繰り返し練習して、「正しい発音ですらすら言える」ようにすることで、ミム・メム練習(mim-mem practice;mimicry memorization practiceの略)などの技法が開発されました。

ミム・メム練習とは、教師が口頭で紹介する、学習すべき項目を含む基本文を、学習者がまねて発音し、それを繰り返し練習することによって、母音と子音、アクセント、イントネーション、リズムなどを正しく言えるようにすると同時に、その基本文を完全に暗記する、というものです。Repeat after meですね。

教師は常にナチュラルスピードでモデル発音を提示することが求められ、学習者も、初級者であっても、同じ速度で正しく発音できるようになるまで練習することが要求されます。

④は、各種の文型練習(パターン・プラクティス;pattern practice)のことで、ミム・メム練習によって導入された基本文を文型として認識し、その文型の中のある構成要素を入れ換えることによって、新しい文を組み立てる習慣を獲得するための練習で、オーディオ・リンガル・メソッドを代表する技法です。

パターン・プラクティスには、(基本)文の一部を入れ換える代入練習、文を一定の条件によって作り換える転換練習、二つの文を一定の規則に従って一つの文にする合成練習、質問に対して一定のルールに従って答える応答練習、文を、与えられるキュー(cue)によって次第に拡大していく拡大練習などの種類があります。

 

助手としてオーディオ・リンガル・メソッドを使っていた1980年代、最先端の外国語教授法は口語コミュニケーションにフォーカスした「コミュニカティブ・アプローチ」と呼ばれる教授法でした。

 

さて、「コミュニカティブ・アプローチ」とはなんぞや?

 

コミュニカティブ・アプローチというのは、読んで字のごとくコミュニケーションを重視した指導方法のことです。大雑把に言うと、正確な文型や文法で話すことよりも、多少間違えたり文法がおかしくても、自分の【意志】が相手に伝わることがより重要だとする教授法です。

コミュニカティブ・アプローチの言語観としては、以下の4点が挙げられます。

(1) 言語は話者にとっての意味・意思・意志を表現するためにあるということ。

(2) 言語の第一の役割は,他者との交流と意思疎通(コミュニケーション)であるということ。

 (3) 言語の構造(文法など)は,単独に存在するのではなく、コミュニケーションと密接なつながりがあるということ。

(4) 言語の基本的な単位は,文法事項や文型という形で設定することもできるが,文よりも大きい単位の談話でこそ、コミュニケーション機能が発揮されるということ。

 

コミュニカティブ・アプローチの言語学習観としては、以下の3点が挙げられます。

(1) コミュニケーション原理

本当のコミュニケーションを伴う活動により言語学習は促進されるということ。

(2) タスク原理

言語が意味のある課題を遂行するために使われる活動により,言語学習は促進されるということ。

(3) 有意味の原理

学習者にとって、意味のある言語学習活動は言語習得を促進するということ。

 

オーディオ・リンガル・メソッドで条件反射のように教師のまねをするような学習活動は学習者自身にとってのあまり教育的意味のある活動ではない、ということになってしまいますね。

 

さて、わたしは今どんな教授法を使っているのでしょうか。

久しぶりに初級を教えていますが、結局のところ、いろいろな方法を使っています。

オーディオリンガルメソッド。これはあまりのんびりしていると効果がないので、エアロビ的にペースを速めに、文型の練習によく使います。

直接法と言って、日本語だけで物を使ったり、身振りなどで分からせてわたしが意図したことをさせる活動は、新しい項目を導入するの使います。たとえば、「これ」、「それ」、「あれ」、「どれ」の導入。また 「これはなんですか?」というのも直接法で答えを出させることができます。

簡単な自己紹介も可能ですね。

他にコミュニカティブ・アプローチっぽいのは、ペアで情報をみつけるタスクなど。

古い方法と批判されるかもしれませんが、学習項目がキチンと入ったかどうかを判断するには、翻訳させるのが一番です。英語から日本語に訳させると、文法事項、慣用句、語彙が総合的に習得されているかどうかが一発でわかります。

そして、初級でもスキットを作らせて、みんなの前で発表させます。

次回から、わたしが日本語教育に「演劇」的な要素を入れるに至ったか、お話していきたいと思います。