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ドラジャパクイーンの本職:もぐりの日本語教師奮闘3

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ビクトリアの秋ーfeat.ポント

日本語を学んでいる人たち、特に日本以外の地で日本語を勉強している人たちにとって、最大の難関は日本語を聞いたり、話したりする機会が非常に限られていることだと思います。

 

日本語を教えていて、教科書の中の「会話」に違和感を覚えることが多々あります。たとえば、この会話文はどうでしょう。

 

クリスマスに何をあげたらいいかと聞かれた人が、「xxさんはいつも同じシャツを着ているから、シャツをあげたらどうですか。」このアドバイスに対し、「それはいいかもしれませんね。」

 

これがくだけた言い方であれば、この二人の関係は近くて、率直なアドバイスをしてあげているんだなあと、なんとか納得できます。しかし、この文をみると、丁寧な言葉使いをしながら、ずいぶん失礼なことを言っている変な人と、おかしなアドバイスにあいづちを打つこれもまた変な人同士の会話になってしまいます。

お笑い番組ではいいかもしれませんが、日本語学習者にとっては適切なモデルにはならないと思います。

 

特に失礼ではないけれど、「こんな風に母語話者は言わないんじゃない?」という会話文も目にすることがあります。

京都へ行く新幹線で隣に乗り合わせた人同士の会話で、「京都へは観光でいらっしゃいるんですか。」それに対し「ええ。」。その後、「キャシーです。どうぞよろしく。」、「山田えみです。どうぞよろしく。」と自己紹介が唐突に始まってしまいます。

 

日本語教科書の中でよく「会話文」として提示されているテキストは、往々にして会話としてはきわめて不自然であることが多いようです。従来の日本語教科書では、各課の「会話」はその課で扱う文型や文法事項の意味、用法を認識させるために、その実例提示の場として機能しています。教科書会話の不自然さは、コミュニケーションを非常に狭い意味での情報伝達ととらえているところから生じていると思います。

それでは、広い意味でのコミュニケーション活動の当事者が楽しめるようにするには、教師としてどんなことを考えたらいいのでしょうか?

 

ある時、日本から大学生が5人、クラスにゲストとしてきてくれたことがあります。みんな元気で、明るい学生さんでした。グループを作って、わたしの学生さんたちと話してもらったところ、いつもは貝のようにだまっている学生さんが、一所懸命つたない日本語で話しているではないですか。しかも、笑ったりして。あきらかに、生き生きとしていましたね。

 

同じ世代、しかも同じ学生同士、さらに魅力的な人。こんな人と友達になりたいという動機づけで話す、というのはよく理解できますね。その反対に、いつも顔を合わせている先生、しかも間違いを容赦なく指摘する恐い先生だったら、話したくなくなるのはよくわかります。

 

さて、教師として、学習者のコミュニケーション能力を伸ばすにはどのような工夫ができるのでしょうか。上に述べたコミュニケーションの考え方に基づくと、ことばそのものの能力を伸ばす以前にしなければならないことがあるのに気づきます。

 

第一に、学習者が話したい、他の人の話を聞きたい、また他の人とかかわりを持ちたい、と思える環境を作ることが大事でしょう。教師が怖い顔をして、学習者同士に会話を無理強いさせる場面を想像してください。さらに学習者が間違えるそばから、教師が間違いを指摘し厳しい態度で即お直しというのでは、話が弾むわけはありません。

 

それから、人それぞれ、コミュニケーションのスタイルが違うことを認め、それを尊重することも重要でしょう。

 

私は人見知りで、よほどのことがないと、自分から知らない人に話しかけることはありません(でした!)しかし、知らない人が困っているようであれば、話しかけると思います。また人の話を聞き、それに対し質問やコメントをする方が気楽ですが、ある人は自分から話しかけるのが好きかもしれません。またことばに出さなくても、表情豊かに人の話に反応する人もいます。教師の役割は各学習者のコミュニケーションスタイル、つまりふつうの状況での人とのかかわり方パターンをつかむのが大切であると思います。一番自分らしい、一番楽なパターンは何なのか。

しかし、同時に状況(話す相手、話題、場面)によって、同じ人でもパターンが変わるということも認める必要があります。

 

また自分の例を挙げて恐縮ですが、私は人見知りで、口数が少ない方だと自覚していましたが、親友とのおしゃべりでは2時間でも3時間でも楽しんで話し続けることができます。この親友とのおしゃべりでは一体何が起きているのでしょうか。また岡田美智男さんのコミュニケーション理論を援用したいと思います。私が自由に楽しみながら話せるのはまず親友に対する絶対的な信頼があるからです。信頼、安心感に基づき、自由に話す行為に身をゆだねます。このような行為をエントラスティングと呼んでいます。これは「一か八か」の賭けではありません。親友がしっかりと私を受け止めてくれるのを知っているからできることです。しっかりと受け止める行為をグラウンディングと呼びます。受け止めるということは、必ずしも私の話に同意、賛成することではありません。反論も考えられますが、反論の仕方は公正で、私を傷つけるという意図はありません。このエントラスティングとグラウンディングの行為は親しい人の間でよく観察されます。素の自己を受け入れる土壌があったら、人はもっと気楽に他者とかかわり、コミュニケーションを行えるのではないでしょうか。

 

語学教育におけるエントラスティングとグラウンディングを成立させる条件として、いくつか教師ができることがあります。

 

「教師と学習者間の信頼関係を築く」には、教師サイドからの働きかけが必要です。はじめの段階にどんなことがクラスメートの気持ちを傷つける可能性があるのかをかなり具体的に説明することは肝要です。このときも、教師が権威を振りかざして、「してはいけません!」と命令をするのではなく、「もしだれかがこんなことをしたら、何が起こるかな?」というように具体的なケースを提示しながら、みんなで考えてもらったほうがいいと思います。

 

この「もし~だったら」という設定をすることですでに演劇的な世界に足を踏み入れています。そして、ゲームでもスポーツでもごっこ遊びでも演劇でも「遊び」的な活動には必ずルールがあります。たとえば、お母さん役をしている子どもに向かって、「あんたはただの子どもじゃない」と言ったら、お母さんごっこの世界は崩壊してしまいます。サッカーはなぜ足だけでボールを動かすのでしょうか。ゲームのルールは往々にして合理的必然性はありません。

 

自信過剰タイプ、話しすぎタイプの学習者に対処する方法としてこのゲームのルールをクラス全体で決めます。たとえば、話すときには、1つの文しか言ってはならないなど人工的なルールを作り、みんながそれに従うのです。そして、上がり症の人たちのためには3回トライのルールを作るなどして、不必要に緊張させないような工夫ができます。

 

以上のようなことを考えて授業に臨めるようになるのに、実はかなりの年数がかかっています。また、自分だけで思いついたことでは決してありません。平田オリザさんの演劇に出会ったこと、ロボット研究者、岡田美智男さんの著書やご本人と接することでじわじわと言語教育とコミュニケーションに対する考え方が変わっていったのだと思っています。