ドラジャパクイーンのお部屋へようこそ!ドラマ・演劇・言語教育について思うこと

ドラマ・演劇を日本語教育に活用するアイデアをシェアする場です。

ドラジャパクイーンの本職:もぐりの日本語教師奮闘4

f:id:DraJapaQueen:20191014084225j:plain

季節外れの彼岸花〜ビクトリアにて

前に、久しぶりに初級日本語を担当しているとお話しましたね。初めて日本語を習う人たちが30名もクラスにいます。教室内であまり練習する時間がなく、個々の学生さんのための行き届いた授業とはとうてい言えない状況です。

クラス外での自習がとても大切です。そのためのリソースも大学オンラインクラスサポートシステムにアップしているのですが、それを使う人とそうでない人の差がかなり開いてきているようです。

6歳児に教えるのと違い、大学生はよい成績を取るという大きな目的・目標がありますので、とくに面白い授業をしなくてもまあ、ついてはきてくれます。

そこに大学生を教える教師の大きな罠があります。

テストに時間を取りすぎてしまうこと。テストが勉強をする動機になってしまうのですね。テストに時間を取られて、肝心の授業の時間が短くなってしまうことに常々疑問を抱いていました。

しかし、そうするとテストがないとクラスに来なくなったり、勉強しなくなる学生さんも出てきます。そして、テストのための日本語学習になり、話したり聞いたりというコミュニケーションの基本がおざなりになってしまいます。

「声に出して読みたい日本語」というベストセラーを覚えていらっしゃるでしょうか。教育学者である斎藤孝さんが現在の国語教育に警鐘を鳴らすものとして話題になりました。

国語教育、子どもたち、若者の日本語から身体性が奪われ、ことばの字面だけが上滑りをして、ひとり歩きしてしまう現象を憂う人たちに訴えるものをこの本は持っていたのだろうと思います。

母語としての日本語だけでなく、外国語として日本語教育に関わっている人たちも、どちらかというと初級の段階に発音、イントネーションといった音声、音韻面に時間をかけるけれど、その後はあまり時間をかけないというのが普通ではないでしょうか。

実は私もその一人でした。20年以上前のことです。中級以上の日本語学習者のための発音指導の一環として、教科書のなかに載っていた「つる女房」を音読させました。成績の善し悪しに関係なく全員しどろもどろ。

私は得意になって、模範朗読をしました。数年、中級以上のクラスで音読を奨励したのですが、どうもうまくいきません。

また気がついたことがいわゆる日本語教科書にのっている日本語が日本語として練れていないということでした。

以前、私自身も読解文を自分で書いたりしていましたが、個人の癖があって、同じ表現を繰り返し使ってしまったり、声に出すとリズムのない駄文しか書けないことが分かり、それ以来、上級以上の学生たちにはプロの文学者、随筆家の文を教材として与えています。

私の個人的な好みで選んだ材料が学生さんの感覚にあうかどうかは全くの賭けですが、今のところ内容が面白いと難しくても食いついてくるようです。音読をさせやすいという理由で、一人称を使って話が運んでいくもの、また会話が多いものを選んでいます。

以上の試みは主に読解のクラスで行ったことです。今度は上級会話のクラスを担当することになり、本当に困りました。

おなじみの状況かも知れませんが、会話のクラスでは練習の必要な人が押し黙ってしまい、いつもおしゃべり上手な学生さんにクラスを独占されてしまうことが多いです。

困窮していた私に僥倖ともいうべきことが起こりました。勤務大学の同僚がその当時、劇作家で劇団青年団の主宰者でいらっしゃる平田オリザさんの「東京ノート」脚本の英訳を完成したばかりでした。

何気なく紀伊国屋書店作成の「東京ノート」ビデオ版を借りてじっくり鑑賞したところ、その中で使われている日本語が、本当に自然だったのに驚きました。

脚本とその英訳も読み、これを会話クラスの主教材にできないかと思い始めたのです。